Grey Area

両極端と、その間、について。

師匠主催のイベントで、エラい方の講演に行ってきた。
世界を飛び回っているものすごくお忙しい方なのだが、師匠が強引に呼び寄せて実現させた。
私たち弟子は万障繰り合わせ、何はともあれ出席する。

さすが世界中で引っ張りだこの人気者だけあって、オーディエンスの巻き込み方が巧い。
ご自身の出自から、文化の融合、アイデンティティ、文化の代表としての個人という考えなどを、第二言語教育に反映させていくということ。
また、医学や心理学などの他分野を言語教育研究に組み込んでいくということ。
そういう文脈で「世の中には白黒つけたがる人ばかりだが、私は世界のすべてがその間のグレーに属すると考える」とおっしゃった。
「だから、複数の分野を融合させて、新しいものを作ろう」と。

まぁね。

気が短かったり、思考が浅かったり、とにかく早くわかりやすい結論を得て安心したいなどの理由で、白黒をつけたがる人がたくさんいて、さらに増えつつある。
しかし実際には、完全な白や完全な黒は存在せず、すべてはその間に属している。
あっちとこっちをくっつければ、今までになかったものができる。

どれもこれも、特に驚くようなことではない。
私の身近なところでは、言語教育とコミュニケーションをくっつけ、さらにコーチングをくっつけて言語コーチングがある。
論文執筆中にもセッション中にも、営業や接客や事務や講師など、私の過去の経験が影響していることに気づく。

だから、そんなにドヤ顔で言うほどのことじゃないと思う。
それでもオーディエンスは大きくうなづき、熱心にメモを取る。
これもよくある光景。
このエライ方はそういう多数にウケる話をしているわけだから、そういう反応になるのは想定内。

私は想定内が苦手。
ミーハーもゴマすりも苦手。
世界を飛び回ることが「半径数kmの範囲で人生のすべてが収まる」ことより優れているという前提も苦手。
あいかわらず、多数に響くことが私には響かない。
講演後、エライ方とうちの師匠が議論するツーショットを見て思った。
2人の地位や知名度が同じくらいなら、私が弟子につきたいのは、万人向けのエライ方じゃなく、強引に周りを振り回し、時には理不尽に怒り、ややもすると白黒つけたがって敵を作る、うちの師匠の方なのだなぁ。
怒鳴られたり凹まされたりして、隣の芝が青く見えることもあるけど、講演者とオーディエンスが一体となって、和やかに進む中を「さっきのキミの発言、私は気に入らなかったのだが」と切り込んで一瞬で場を凍らせる、この師匠でなければ、私はここまで来られなかったのだろう。

翌日、Nさんにその話をする。
3歳からずっと音楽の世界で生きてきたNさんは、白黒派。
意外にもNさんはそのことをコンプレックスに感じているらしい。
思いっきり偏った人をたくさん見てきたせいでもある。
「複数の世界を知り、融合ができる方がいい」とおっしゃった。

私は自分がどっぷりグレーなので、白黒派に憧れがある。
私のように、研究をやっても会社に勤めてもそこそこ重宝され、相手が国家公務員でも、主婦でも、学生でも、エリートでも、芸術家でも、体育会系でも、子どもでも大人でも、ナニジンでも、相手の土俵でそれなりに楽しく会話ができてしまうことは、職業柄、便利でありがたいことなのでコンプレックスではないけど、ちょっと残念ではあるのだ。
たとえば職人気質で人付き合いはからきしダメだとか、ある分野では一流だけど、電車の乗り方も洗濯の仕方も知らないとか、そういうのを「カッコいい」と思ってしまう。

ま、それ自体はお互いにないものねだりだとして。
問題はグレー派を声高に推奨し、勧誘すべきかどうか。
そこが昨日の講演で私の賛成できなかったところだと思う。

完全なる白も、完全なる黒も、存在しない。
それはそうだと思う。
仮に、完全なる純白を目指して必死にやっても、必ずどこかに黒は混ざってくる。
だから、特に教育では、グレーを認め、許容すること、完璧を求めないことが重要なのだ。
第二言語としての英語教育で言うなら、非ネイティブの特徴や、誤用、誤解、不足を片っ端から正すのではなく、それらの特徴を“アリ”として、社会の中でどう生かすか考えていくことなどがグレーを認めることに相当すると思う。

しかし、グレーはあくまでも結果であって、あえて推奨して、促進したり増やしたりするものではないと思う。
“混ざり物”は放っておいても生まれてくる。
自然に生まれるものを、わざわざ推奨する必要があるだろうか。
教育の意味は、白または黒を理想に掲げ、それを目指して試行錯誤するところにあるのではないかと私は思う。

セミリンガルとかダブル・リミテッドと揶揄されるような、英語も日本語も習熟度が低く、2言語を混ぜて使う人を教育は認め、許容する。
成長段階の一つとして、見守る。
しかし、それを推奨したりはしない。
教育は、英語も日本語も、きちんと使える人になるように指導する。
認める・許すことと、勧める・増やすことは違う。
そこをごっちゃにしてはならないと思う。

特定の分野の質を高めていくために、極端に近い白黒派の人たちの存在は欠かせない。
グレー派ばかりでは地盤沈下が起こりやすくなる。
あっちとこっちをくっつけるにしても、白と黒に近いものが存在してくれているからおもしろいものができる。
リバイバル、リメーク、カバー、コラボが成功するのは、元々の種の色の濃さ、魅力、奇抜さ、個性の強さがあってこそ。
グレーとグレーを安直にくっつけたものは、つまらないもの、本末転倒なものに終わりやすい。

新しい種を生み出さず、すでにあるものの融合だけが進めば、世界はどんどん均一化していく。
これはグローバル化の結果として懸念されていることでもある。
教育がすべきことは、そういう流れの中で、混ぜても混ぜても混ざらない異端を守り、育てることではないだろうか。
グレー派はすでに多数で、勢いを増してきている。
だからこそ、その勢いに呑み込まれず、各分野を個別に牽引し、それぞれのトンガリを作ってくれる白黒派の存在が貴重になってくる。
教育はそういう時代の要請を見越して、今から準備しておかないきゃいけないんじゃないの?

白黒を推奨するには、勇気や覚悟が要る。
両端を目指すことは厳しく、過酷で孤独だから。
それを目指させることには責任を伴い、恨みを買う可能性もある。
最初から「グレーにしなよ」と言っておけば、責任や恨みを回避できる。
グレーを推奨する教育には、保身が見え隠れする。

白または黒を目指した人は、やがて必要に迫られて、多かれ少なかれ、グレーの中心へ寄ることになる。
両端を目指した人の人生は、それだけの幅ができ、豊かになる。
ずっとグレーで生きてきた人が、後から白や黒に近づくことは難しい。
どちらの人を育てたいか、そこを議論する必要がある。

グレー派の最大の弱点は、八方美人になり、多数にウケることの快感におぼれてトンガったことを言わないように気をつけているうちに、思考が停止すること。
反発されず、敵を作らないことで、
知らず知らずのうちに、軽く薄っぺらになっていくこと。
グレーのつもりが、いつのまにか玉虫色になっていること。

いろんなことをちょっとずつかじり、あっちとこっちをくっつけてきた私がグレー派から足を洗うことはできない。
だからこそ、グレーの危険性を自覚しておかなくてはならない。
自分の立ち位置を見失わず、流されず、かつ柔軟に動き、自分の考えを研ぎ続けていこうと思う。

【関連記事】
Dichotomy (2008/10/14)
許可証 (2011/5/1)
アイノコ (2014/12/6)
アドリブ欲 (2014/1/5)
『マーケット感覚を身につけよう』 (2015/3/2)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です