続・スピード感覚

スピード感覚(参照)について、もうちょっと考えてみた。

自分が基本とし、それと比べて速い/遅いと感じるスピードには個人差があるようだが、それには子どもの頃の経験が影響しているかもしれない。
私は車のない家で育ち、子どもの頃の移動手段はもっぱら景色の見えない地下鉄。
自転車は中学の修学旅行先でサイクリングすると言われて、仕方なく練習して乗れるようになるまでノータッチだった。
その環境では、スピードの基準になるのは徒歩しかなかったのかも。
いわば、スピード感覚の臨界期仮説。

多くの人は自分の基本スピードより速いものを求めるので、大人になるにつれ、好みのスピードはだんだん高速化していくが、私の場合は基本スピードのまま、すっかり満足しちゃっているため、現在も徒歩が私の好みのスピードとなっている。

そういえば、私は基本的に車窓から外を眺める習慣がない。
これも地下鉄育ちの影響かもね。
移動のため乗り物に乗せてもらっている場合は、一人なら文字を読んでいるか、寝ているか。
同乗者がいればその人の方を向いているか。
「キレイだから見ておこう」と意識的に景色に目をやることはあるが、そうでもなければ見ていない。

これまでは、ただ興味の問題だと思っていたが、スピードという観点で考えてみると、私は高速移動している時の景色が苦手なのかもしれない。
遠くの景色がゆったり流れているうちは良いが、近くのものがチャカチャカと流れていくのを見ているとすぐ疲れてしまう。
景色として一番の好みは静止画で、ゆっくりめの映像ならなんとか見ていることができるが、高速で変化する景色には耐えられないのだろう。

車窓といえば、観光バスのガイドや、天気の良い日のフライトでパイロットが「右手にXXが見えます」みたいなことを言うが、私はそれらをよく見逃す。
富士山ぐらいの大きさならどうにか捕まえられるが、対象が建物ぐらいのものでは見つけられないのだ。
「え、どこどこ?」とか言っているうちに通り過ぎてしまう。

このことを、私は長い間「他の人に見えているものが自分には見えない」「自分は他の人と見ているところが違う」の根拠にしてきた。
ま、もちろんそれは認めざるを得ない。
たとえば対象物がほぼ移動しない星空でも、他の人がどの星のことを指しているのかわからないし、アナウンス学校で同じ映像に実況をつける訓練をしたときもクラスで私の実況だけが“異色”だったので、私の目の付け所がおかしいのは間違いないのだ。

しかし、あの乗り物に乗っているときの「ご覧ください」が見えないことについては、もう一つ、速度についていけてないという要素がありそうだ。
私の基本スピードが、多くの人が基本とする一般的なスピードより遅いということを示す事例。
さらに、見えなかったからといってそれを克服しようとせず、「見えなかったけど別にいいや」なので、基本スピードを上げようと努力するきっかけにもならない。

そう考えると、むしろ私が「仕事が速い」と思われていることが不思議になってくる。
特にスピードを上げているつもりはないんだけどな。
仕事モードになっているときの私はギアが違うのか、あるいはイリュージョン的な何かが起きていて、本当は遅いのに、皆が惑わされているだけなのか。
うーむ。

「より速く」を好む人たちのおかげで、世の中は便利になってきた。
だから私のようなトロいのが少数派で本当によかった。
ただ、私の基本スピードが遅めに設定されていることは、こと教育という分野では役に立っていると思う。
理解の遅い子どもに丁寧に説明を繰り返したり、じっくり考える学習者の傍で黙ってじっと待ったり、感情の高ぶっている人を落ち着かせるようにしたり、行ったり来たりする人生の先輩の話に耳を傾けたり、「バッポン的、バッポン的」という割に遅遅として進まない教育改革を見放すでもなく、絶望するでもなく、急かすでもなく見守ったり。
教育なんてものをやろうとする人は、気が長くないと辛いだろう。

以下、スピード感覚とは関係がないが、引っかかる人がいるかもしれないので、いちおう書き添えておく。
「臨界期仮説」について、私は第一言語(母語)の習得や、第二言語のうち音声の習得の一部においては賛成するところがあるが、第二言語そのものの習得や上達に臨界期が存在するか否かについては、議論自体に意味がないと思っている。
特に「英語は子どものうちに!」という文脈で“臨界期”を絶対視するような態度については、学術用語および第二言語についての理解が浅い者による乱用であり、専門家からの指摘によって訂正されるべきと見なす。
これ以上はまた別の機会に。

【関連記事】
スピード感覚 (2015/2/26)
バス (2008/6/29)

「続・スピード感覚」への2件のフィードバック

  1. スピードとは直接関係ない別のことを想起してしまいました。私は「突然の大きな音」にとても弱いのです。道を歩いていて突然何かがぶつかったり落下したりする音が聞こえると、反射的にダッキングしてしまうほどびくっとしてしまい、周囲の人が平然としているのが不思議でたまらないほどです。

    これはもしかしたら、生まれて間もなく私の生まれた町の花火大会があったせいではないかと気付いたのは、死んだ母の証言からでした。私の生まれた家は花火大会会場の間近で、花火が上がる度に大音響が腹に響くほど空気を震わせていたのです。新生児の私は花火の爆発音が響く度にビクッと体を震わせていたそうで、大人たちはそれを 「微笑ましい反応」 として笑ってみていたそうです。それが還暦過ぎてまでトラウマとして残るとも知らずに。

  2. 「ダッキング」という言葉、はじめて知りました。さすが格闘家。笑

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