説教キャラになる人と、その周りの人たちのこと。
「説教」と言えば、する方もされる方も、できれば避けて通りたいと思いそうなものだが、実はそうでもないらしい。
私は説教キャラをあてがわれることがある。
決して愉快なものではないが、放ってある。
相手の持つ印象を私が操作することはできないし、私の言動のどこかに、そう思わせる根拠があるのだろう。
たとえば子どもを預かるような場面では、私は現代日本の一般的な大人の“平均”よりよく叱るタイプだろうから、そういうところから説教キャラが付いているなら仕方がない。
私と相手の見解が異なるということは、私か、相手か、あるいは両者が、私について誤解している、ということになる。
これを解こうとすれば、私の側に相当の感情的体力が必要となるが、あいにく私はそれを持ち合わせていない。
しかもこの手の誤解はたとえ解けても後味がよくない。
というわけで、放置するより他にない。
私が説教キャラだと思うなら、説教されないようにするなり、私から離れるなりすればいいのに、と思うが、そういうものでもないらしい。
「また叱られちゃう」なんて楽しそうにしている。
「また」って、叱ったことなんてないでしょう、と思うけど、そんなことは言っても通じないようにできている。
そういえば世の中には「カミさんに叱られちゃって」と嬉しそうなおじさんとか、頭ごなしに叱りつける占い師にわざわざ会いに行くおねえさんとかもいるね。
彼らは説教に対して好意的なのかもしれない。
そして彼らは、自分を叱ってくれる人を傍に置きたがる。
都合の良いことに、世の中には説教をしたがる人もいる。
需要と供給。
説教好きの人は、求められるまま、説教キャラを請け負い、それによって注目され、一目置かれることに快感を覚える。
叱るのをやめたら、叱られたい人たちが他へ行ってしまうから、彼らを引き止めるために叱りまくり、彼らを飽きさせないよう、叱り方をどんどんエスカレートさせていく。
論理がめちゃめちゃでも、偏った思想でも、自己陶酔でも、ヒステリックな金切り声でも、ありがたがって聞く人がいる以上、本人は使命感さえ覚えながら、“叱り”を続ける。
そして最終的には破綻する。
周りからは潮が引くように人がいなくなる。
そう考えると、叱られたがりの人たちは罪深いね。
説教キャラをあてがわれるということは、私も他人事ではないのかもしれない。
いつか嬉々として“叱り”をやりだすかもしれない。
「私はアメリカに10年も住んで、すべてをこの目で見てきたのよ。大学院も出て、何でも知ってるのよ。英語も堪能よ。あなたたちは何もわかってない。私は常に正しい。私の意見が通らないなんておかしい。私の言うことを聞けないようじゃ、この国はもうおしまいよ」とか言って、高笑いするようになるかもしれない。
もしそうなったら、どなたか、すみませんがお願いします。
怖かったら匿名で全然いいんで、「昔こんなことを書いてましたよ」と、今日のブログ記事のリンクをそっと知らせてください。
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