『あえて英語公用語論』を読んだ。
何故いま、今さらこの本なのか。
特に深い意味はない。ただの偶然。
著者は船橋洋一氏。
彼が新聞社主筆になったり、原発事故が起きたりするより前の2000年にこの本は出版された。
当時のアジア、アメリカ、ヨーロッパ諸国のバイリンガル、英語教育事情を紹介し、それを踏まえて、主に政治、経済の観点から将来を見据えて「日本語を公用語、英語を第二公用語にする」という案を展開している。
取材や構成、あるいは批判への対応(pp.196-211)など、全体的に丁寧だな、という印象。
それから15年。
当時“将来”と呼ばれていた時間的区分の一部はすでに過去になった。
第6章の「英語公用語論 提案」を一つ一つ検証し、特に提案どおりにならなかったものについて背景や理由を洗い出してみたら、おもしろいかもしれない。
また、「政府の英語力の貧困」(pp.182-192) については、15年経った今、当時の実態と比較してほしいと思う。
“公用語化”が実現してもしなくても、ここに挙げられているような“英語必要度”(p.224)の高い官庁の職員に高い英語運用能力が求められていることに変わりはない。
アメリカにいると、こうした官庁から大学院などに留学中の若手職員の方と知り合うことがある。
お互い日本語を遣って話すので、彼らの英語を直接見聞きする機会はほとんどないが、母語の遣い方からコミュニケーション力は見えるし、英語力も推測できる。
サンプル数が非常に少ないので何の参考にもならないが、今のところ、「さすが官庁職員」と感心するような方にお会いしたことはない。
当時の中央官庁中堅職員たちの声に表れている職員の英語力についての批判や懸念(pp.189-192) は、いまや色あせた昔の話になっているだろうか。
1941年の日米交渉における日本大使(p.193) まで遡ったら、その英語力、国際感覚、コミュニケーションに対する認識は、現代日本人には想像もつかないほど遠く古いものになっているだろうか。
日本人が英語を習得するには時間がかかる。
ある朝起きたらペラペラにはならない。
でも、いくらなんでも時間がかかりすぎている。
手ぬるい。
英語公用語論の是非はともかく、そのくらいしないと埒が開かないと言いたくなる気持ちはわかる。
船橋洋一. (2000). あえて英語公用語論. 文藝春秋.