すごい人たちの前で凹んでしまうことについて。
最近知り合ったYさんが、フジコ・ヘミングさんのコンサートの主催・企画をしているというので、微力ながら広報のお手伝いとして、近所で興味のありそうな人に声をかけた。
ミュージシャンのNさんに
「あの御年でこのヘビーなプログラムはすごい」と言われて、改めて確認して、「本当だ、すごい」と思う。
フジコさんのような遠いところにいるすごい人たちの話は、日々、主にメディアを通じて入ってくる。
しかも私は『プロフェッショナル』(参照)とか、『カンブリア宮殿』(参照)とか『致知』(参照)とかに好んで寄っていくタイプ。
しかし、近いところにもすごい人はいくらでもいる。
何を隠そう、YさんもNさんも芸術家として一線級の人たち。
他にも私の周りには、いろんな分野の研究者とその卵たち、医療や法律の専門家、経営者、職人などがいっぱいいる。
また、学歴や職歴とは別に、制度やシステムを変えるために奮闘しているとか、子どもたちの将来のために頑張っているとか、あるいは変わらないために毎日をきちんと過ごすとか。
すごい人ばっかりなのである。
すごい人を前にしたとき、人はいろいろな反応をする。
メディアという特殊なフィルターを通じて遠くのすごい人のことを聞きかじった場合と、直接すごい人と対面して自分のフィルターを通じて感じた場合とでも違いがあるかもしれない。
内田樹氏は「剣呑」と言った(参照)。
私は性格的に「うっせーな」とイラついたりはしないけど、その胸騒ぎはよくわかる。
闘争心のある人なら、すごい人を前に「負けるもんか」「いつか自分も」と燃え立つのかもしれない。
劣等感と優越感に交互に苛まれている人なら「どうせ自分なんか」「今に見てろ」となるかもしれない。
これらは健康的な反応だと思う。
私はそうはならない。
ただただ、どんよりと落ち込んでしまう。
細かく分析すれば、不安や焦りや絶望が混じっているのだろうけど、ざっくり、反応として表面に現れるのは「凹み」でしかない。
「私は何をやってるんだろう」と途方に暮れる。
へなへなになる。
「悔しい」とか、ないのよ。
「どうぞどうぞ」なの。
で、「すごいなぁ」と心から思って、自分との差にガッカリする。
そんだけ。
「差」という言葉に過敏に反応する人もいるけど、そういう意味じゃないのよ。
わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。
最近、日本の学校ではテストを白紙で出す子が増えていると聞く。
大人は「何でもいいから書きなさい」と言うらしいが、私にはその試合放棄な感じが、なんとなくわかる。
完璧主義とは別なんだよなぁ。
ひねくれているのか、心が弱いのか、器が小さいのか、その全部か、わからないけど、なんかもう、力が抜けちゃうんだよね。
ちなみに日本の子どもはアメリカの学校でもそれをやって、白紙回答に慣れていない先生方をざわつかせる。
私もアメリカの大学院で、白紙ではないけど、それに準じた行動をとって先生方をざわつかせた。
このへんも日本的ガラパゴスなのかもしれない。
少なくとも私とアメリカ式の“鼓舞”は相性が悪い。
ただ、そんなふうに脱力しつつも、落ち込みつつも、私はすごい人たちとの関わりを絶とうとは思わない。
何故かすごい人と知り合う機会にやたら恵まれているし、何と言っても、すごい人はおもしろいから。
「おもしろそうだったから、つい」なんですな。
そして、すごい人たちを目の当たりにして、また凹む。
ま、これもドMの為せる業。
よいこはマネしないでね。