『英語のあや』

『英語のあや:言葉を学ぶとはどういうことか』を読んだ。

著者は言語学を修め、翻訳や辞書編纂に携わり、さまざまな外国語を学び (pp. 70-1)、1983年から日本に住み、母語である英語を東京大学で教えながら日本人の英語に日常的に触れているアメリカ人。

私は冠詞を説明するための資料を集める中で『科学英語を考える』(参照)というサイトを見つけ、著者に興味を持ち、この本に出会った。

良い本だった。
良質の資料を見つけ出す私の嗅覚はまだ衰えていないと感じられてうれしかった。
いわゆる不安商法的な「こんな英語じゃマズイよ」にならないよう細心の注意を払って書かれている点にも好感を持った。
でも、ま、ちょっと読み手を選ぶかな。

特に素晴らしいのは、「the は相手が知っていることを表す」(pp.18-21)、「同じように見えても同じではない英語と日本語」(pp. 46-9)、「日本語のような英文」と「英語らしい英文」の比較 (pp.53-6)の例と説明のうまさ。
自分の英語に自信のある人が、謙虚な気持ちを持って読むととても役に立つと思う。

翻訳 (pp.106-7) や英語学習 (pp.110-5) のカネにまつわるぶっちゃけ話もおもしろかった。
「日本語の味が残る英語」(p.2)、「英語の味が残る日本語」(p.10) という表現は、今後、コーチングなどの現場で使わせてもらおうと思う。
日本人の英語を観察することが生活の中心にあり、カタカナ語(参照)や不思議な英語(参照1 参照2)が気になったり、日本で英語の文字列が言語扱いされていないことを嘆いたり(参照)、匿名の論文の書き手が日本人であることを見破ったり(参照)、ネイティブと非ネイティブ(参照)や母語での言語教育(参照)について考えたり、辞書の魅力(参照1 参照2)や翻訳の面白さと難しさを感じている私にとって、この本に書かれていることは「あるある」「わかるわかる」。
答え合わせをしているような感覚でするすると読み終えた。

ただ、イマドキの学習者の多くはせかせかしていて、辞書はろくに引かない、引いても最初の語釈しか見ない、文法は単純な部分だけをかいつまんで暗記し、性急に白黒をつけたがる傾向が強いので、この本の良さは伝わりにくいかもしれないと思う。

「第二言語の習得方法については、「正しい」学び方と教え方がわからなくなってきた」(p.iv)
「学生が提出した課題に見つかる文法などのミスを直すべきかどうかについても疑問を持つようになった」(pp.8-9)

言葉の変化、文脈や発信者と受信者の関係性による影響など、言語と切っても切れない要素を無視することができないからこそ、グレーゾーンを残さざるを得ない。
ネイティブor非ネイティブ (pp.100-1) についても、小学校英語の是非 (pp.136-7) についても、“オールイングリッシュ” (pp. 152-5) についても、著者はどちらの肩を持つでもなく、論調はニュートラル。
問題提起に留めている。

正直で謙虚な著者だからこその誠実な姿勢であり、英語教育の専門家だからこそ、明言を避けているのである。
しかし、せっかちで白黒を好む一般読者は、気長で柔軟なグレーには満足できず、「で?答えてくれないの?」とがっかりしたりイライラしたりするかもしれない。
そして、急ぐ彼らは「これさえやれば1週間でペラペラ」系の英語屋さんの売り文句に安直に飛びついてしまうのかもしれない。

『30年間で英語の達人になろう!』 (p.114) という本のアイディアなんて、私は最高だと思うけど、ま、売れませんわな。
本当のことを誠実に伝えようとすれば伝わらず、望ましくない方向へ学習者たちが誘導されていくのを止められないどころか、かえって促進してしまうのだとしたら、日本で英語教育をやるということはなんと寂しく、切ないものかと思う。

トム・ガリー (2010). 英語のあや:言葉を学ぶとはどういうことか. 研究社.

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