“オールイングリッシュ”や“英語公用語化”や“ガラパゴス”のことを、また。
日本在住の日本人で、英語ができる人とお話しする機会があった。
英語圏に数年住んだ経験があり、英検やTOEIC で難関とされるラインをパスし、英会話学校で教え、さまざまな方法で英語学習を続けている。
日本に住んでいる日本人で、上級とされる英語学習者にはこのタイプが多い。
そしてこのタイプの人たちが目指すのは「日本人の前で使える英語」。
学習の動機は「日本人に一目置かれるようになりたい」。
今回お話しした方は、普段外国人に会う機会はなく、英語を使うのは、通っている英語サークルと教えている学校でのみ。
いずれも、参加者は100%日本人。
「旅先などで外国人と話すときは気にならないが、『日本人に聞かれている』と思うと、緊張度が増す」と言う。
英語を教えている知人の「日本人の前で英語を話すというのは、公開処刑のようなもの」という言葉に、大いに共感しているそうだ。
なるほど。
日本人向けの英語教育の難しさは、こんなところにもありそうだね。
一般的な日本人が、他の人の英語力を判定する基準は2つ。
①全然ダメ・不合格と、②完璧・合格。
自分の英語力を判定する場合は、“不合格”が圧倒的に多い。
他の日本人の英語力を判定する場合は、自分の英語力の範囲内で、まずは発音、次に文法や語彙について“アラ探し”をして、そのどちらかに引っかかりがあれば①、なければ②に振り分ける。
この方法で、たとえばネイティブの英語力を判定する場合は、最優先項目である発音で“合格”が獲得できるので、文法も語彙も調べられずに済む。
日本人の英語力を判定する場合は、発音に日本語的な要素があれば即座に“不合格”。
そして日本人の場合は発音が“まあ合格”でも、二次審査は免れず、「聞こえはいいけど、文法に間違いがある」などの指摘を受け、結局“不合格”になることが多い。
だから日本人が日本人の前で英語を使うとき、発信側は“アラ探し”を受けることに耐えつつ、できるだけ減点されないように細心の注意を払う必要がある。
自分の英語に対するフィードバックについても、褒められたところはほとんどスルーして、ダメ出しを重く受け止める。
受信側は“アラ探し”に神経を集中させ、できるだけ減点すべきところを見逃さないように気をつける。
減点すべきところを見落としてしまったら、それはすなわち自分にはそれを見破るだけの英語力が不足していることを示すから。
「こんな細かいところを、ちゃんと見つけて減点しました」と言うことによって、英語力の高さを証明することができる。
話の内容なんてどうでもいい。
興味の中心は、どんな英語が使われているか。
…うーん。
いろいろ、いろいろ、おかしいよね。
この土壌で、“オールイングリッシュ”や“英語公用語化”を導入すると、何が起きるのだろうか。
“アラ探し”がますますひどくなり、減点を恐れて無口になる人が増えるだろうか。
あるいは、そのバカらしさに気づいて“アラ探し”を止め、英語「を」話すのではなく、英語「で」話せるようになっていくだろうか。
いちおう言っておくと、実際は「①全然ダメ」と「②完璧」の間には無数の段階がグラデーションをなしており、さらに、たとえば「文法は正しいが、語用としてイマイチ」のように、さまざまな要素が複雑に絡み合っている。
私が知る限り、私を含む日本人英語学習者のほとんどは①と②の間に属する。
ガラパゴス化については、どうだろうか。
日本人に認められることを目指した英語学習ではガラパゴス化はますます進む。
日本人同士が集まって英語を使う場では、日本の話題を英語に訳して話しているのだそうだ。
今回の方も、日本のニュースの英訳を欠かさずチェックして、英語サークルで話題に上るような、たとえば「衆議院解散」や「はやぶさ」関連の訳語を、他のメンバーに負けじと、パッと言えるように努力しているという。
それが「語彙を増やす」「切磋琢磨」の意味。
情報源はあくまでも日本発信の英語ニュースで、外国発信のニュースは、たとえ英語でも取りに行かない。
内容を問われない会話ではニュースを深読みする必要はないし、お互いに内容がよくわかっている話題を選ばないと、英語力を磨くというポイントがぼやけるから。
日本語の諺の直訳などをはさみつつ、「柿の季節ですね。干し柿は好きですか?」「今が旬の魚は何ですか?」というようなことを、英語でスラスラやり取りできるようになるのが目標なのだ。
そのために、努力に努力を重ねる。
…うん。
まぁ頑張るのはいいことだけどさ。
良いとか悪いとかじゃないけど、日本人は大義名分をすぐ忘れ、目の前のことに集中して、独自の深化と進化を施してしまうクセがある。
だからこそ、ガラパゴス化が起きる。
過剰なサービスやオーバースペックな製品が生まれる。
日本文化圏内で、日本人同士で英語を使わせていると、日本人は、そこでしか通じない英語を極めるようになっていく。
コミュニケーションの仕方は、お互いに日本的なままで問題にならないから、問題なし。
「日本人同士が、日本語で話す」ということを禁止して、英語を使う理由を人工的につくり、外国人が気にしないことや知らないこととは無関係に、日本人から“合格”がもらえるようにひたすら頑張る。
日本の英語教育は最終的にどこへ向かうべきか。
まずそれをしっかりと定めること。
そして、それをこまめにリマインドし、軌道修正すること。
その手間なくして、日本の英語教育は成功しないだろう。
欧米から輸入した教授法が日本で機能しないのは、それらが日本人学習者にフィットしないからじゃないかな。
欧米で開発され普及した教授法はもともと意図的に単純化されているが、日本へ輸入する際には、日本語への翻訳や学者など輸入する人の解釈というフィルターによって、さらに単純化されている。
一方で日本の日本人学習者は、欧米で考えられている学習者より複雑で、欧米の研究に登場する学習者にはない特徴を持ち合わせている。
日本の英語教育をガラパゴス化させないためには、日本人向けに教授法を相当アレンジをするか、日本人の特徴を生かした方法を独自に開発する必要があるだろう。
そして私の考えは、あいかわらず。
・日本人が英語を学ぶのは、外国との情報の受発信や外国人とのコミュニケーションを円滑に行うため。
・英語を使うのは、知識を蓄え、視野を広げ、国際交流を楽しみ、人脈を築き、考えを深めるため。
・それは通訳や翻訳を利用して行うこともできる。
・その必要がない人は、英語をやる必要もない。
・趣味は自由だが、ストレスになるならやめた方がいい。
・日本人同士は日本語で話した方が効率が良く、有意義。
これに同意していただける人のお手伝いならできると思う。
そうでないと、ちょっと難しいかもね。
日本で“国民皆英語”と“グローバル”を両立させるのは、本当に大変。
「はやぶさ」よりずっと壮大なロマンだと思う。
※文中の「オールイングリッシュ」「スルーする」「オーバースペック」は日本語です。念のため。