欧米型のLeadership と日本型のリーダーシップについて。
最近は日本でもLeadership の重要性が強調され、Leadership 教育も少しずつ進んできた。
ま、ただ、いまだに「リーダー」といえば、先頭に立つ、みんなを引っ張る、目立つ、率先垂範する、または命令する、牛耳る、失敗したら責任をかぶる…などのイメージが強いようで、「私はそういう立場には立ちたくない。起業もしない。だから私にリーダーシップは不要」などと言う人もいるようなので、日本にLeadership を輸入するのはそう簡単ではなさそうだ。
まぁ政治にしろ企業にしろ、忘年会の幹事にしろ、「リーダーシップをとって損をする」例は枚挙に暇がないので、そういうふうになっちゃうんだろうね。
だからこそ、日本の将来を担う子どもたちにはLeadership をきちんと学んで、身につけて、リーダーになるとしても、ならないとしても、あるいはリーダー役のときも、そうでないときも、Leadership を発揮できるようになってほしいと心から思う。
で、まぁ、それはいいんだけど。
もっと身近なちっちゃい話。
私は日本で生まれて日本で育ったので、ずっと、日本型の、とったら損するリーダーシップしか知らなかった。
そしてそれを好まなかったので、リーダーシップが求められるようなことは全力で避けた。
理科の実験の班長も、遠足などのリーダーも、頑なに拒んだ。
6年生のとき、ただ年長だというだけで登校班の班長にさせられたときは、なんて理不尽なことかと思った。
“班長バッジ”をつけることも、登校班の先頭に立つのも、イヤでイヤで仕方がなかった。
中学では前期または後期になんらかの委員になって、全員、少なくとも年に1度は委員的な何かをやることが義務付けられていたような気がするが、私は3年間、委員になることから逃げ続けた。
「委員をやらないと内申に響くよ」と言われたが、私には関係なかった。
高校も大学も、だいたいそんな感じで、私はリーダーシップとは縁のない生活をしていた。
だから、日本の学生時代の友人たちは、いまの私が教育や事業をやっていると聞くと耳を疑う。
Leadership に関する私の最初の転機は、子どもの英語教室を任されたときだったのだろうと思う。
授業をやる以上、子どもたちの前に立ち、意味のある授業を用意し、子どもたちに楽しんでもらえるよう気を配る。
教室に大人は私だけだったので、教室の管理をすべて任され、子どもが騒いでもケンカしても怪我をしても、私ひとりで対処した。
それを、Leadership とつなげて考えてはいなかった。
リーダーシップはあいかわらず嫌いだったし、Leadership のことは何も知らなかったし。
ただ、私は大人で、相手は子どもで、仕事だったから、何の疑問も嫌悪感もなく、また特に張り切るでもなく、ごく自然に、当たり前のこととしてやっていた。
あれがもし、大人の英語教室だったら、あるいは普通の学校のように、他にも大人がいる場だったら、私はまだリーダーシップから逃げようとしていただろう。
2つ目の転機は、震災のときの支援活動。
できれば他の誰かにやってほしい気持ちはもちろんあったが、非常事態だったから仕方がなかった。
たまたま場所もLeadership が当たり前なアメリカだったから、比較的抵抗が少なかった。
Leadership を正式に学んだのは、コーチングの世界に入ってから。
コーチングがLeadership と密接に関係しているということもまったく知らずに入ったのだが、「点と点がつながる」とはこのことで、すとんと理解できた。
さらに、コーチのLeadership を利用すれば、Teacher に求められがちな「先頭に立ち、中心になり、指示する」などの旧式のリーダーシップを堂々と排除することができる。
支援団体を作り、教育をやり、事業をやり、コーチをやっている人。
いま私の周りにいる人たちは、そういう私を見ている。
それは事実だし、周りの人が何をどう思おうと、それはその人の自由なので、とやかく言うつもりはない。
世話好きだし、仕事は好きだし、やんなきゃいけないことはやんなきゃいけないので、やるし。
近頃はLeadership を知る人と一緒に何かする機会も増えた。
Leadership がとれる人との共同作業は気持ちがいい。
そこでなら、私はリーダーになっても構わないし、他の人にリーダーをやってもらう場合にもできるだけ貢献なりサポートなりをしようとも思う。
しかし、日本型のリーダーシップしか知らない人もいる。
リーダーシップを取りたがる人にグイグイ来られるのも困るが、リーダーシップを取りたがらない人に、渡りに舟とばかりに乗っかられるのも困る。
「決めてください」「言うとおりにします」と明確に“おんぶお化け宣言”をされたり、私が動くまで気配を消すような態度をとられると、うんざりしてしまう。
かつて自分がそうだったからこそ、そういうのがよく見える。
これも子どもの頃に逃げていたツケが回ってきたのかもしれないから、ある程度はしょうがないと思って、乗っからせることもある。
“6年生”的な立場でもある。
でも、あまりにも面倒くさいと、降ろす。
私のLeadership はまだまだ未完成なので、思考停止して上げ膳据え膳を求めるような人まではカバーできないのよ。
ごめんなさいね。
日本型リーダーシップに乗っかりたい人たちをリードできるのは、独裁主義的な声の大きい人か、お客様を神様扱いできる特殊なサービス業の人ぐらいじゃないかと思う。
判断難民と、独裁者と、カネ儲け。
卵が先か、鶏が先か。
需給バランスはとれているのだと思う。
だからこそ、日本の将来を担う子どもたちには…
あ、戻ったね。
がんばれ、ニッポン。
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