私の研究が、師匠の日常に影響しはじめている件。
最近の師匠とのアポは、数日前までに私が書いたものを送っておき、当日はそれについての師匠からのフィードバックと1時間ほどのディスカッション、というパターンになってきている。
そこでアイディアの方向付けをしたり、新たなポイントを立てて、持ち帰った私がまた何か書く…の繰り返し。
というわけで今日もすでに送った原稿について師匠のご意見ご感想を伺うべく、オフィスへ向かった。
廊下で待っていたが、前のアポが長引いている様子。
ドアが開いているので会話が聞こえてくる。
この英語の感じからすると日本人だ。
若い男性で、英語自体はそこそこできているし、英語を使った経験もある程度ありそうだが、やりとりがとても日本的。
で、私の番になり、彼と入れ替わりで入室すると、師匠はニヤリとして、「たった今、日本人との英会話を体験したよ」と言った。
「ええ、少し漏れ聞こえていました。日本人とは珍しいですね。新入生ですか?」と聞くと、「いや、言語学専攻の学部生だ。今の単位の話、あれをもう5回も6回もしているんだが、理解しているのかどうなのか、定かでない。君が送ってきた今日のディスカッション用メモ、あれのとおりだ。」
ふふふ。
師匠はさらにニヤリ。
「君の研究のせいで、私は慎重になっている」。
私「彼の理解の示し方はどうですか?」
師匠「理解は示す。言語的にはな。でもそれだけでは心もとないので、表現を変えたり、書いたりして繰り返し説明するだろう。すると、わかったような反応を示すのだが、本当にわかっているか確認すると、よくわかっていない。」
私「ただ、それも理解はできているのに、そう表現することができないという可能性がありますね」
師匠「うむ。それもある。一方で、相手へのオモイヤリから『これ以上自分のために長引かせるのはまずい』という気が働いて、わかったことにしようとしているのかもしれない。判断が難しい」。
私「こちらが『理解した』という確証を得たいと思っているのに、日本人は『理解した』ということを明示しない、ということですね」
師匠「『理解した』というシグナルは出すけどな」
私「それが『理解した』ということにはならない」
そして、そのままの流れでメインの議論へ。
コミュニケーションを軸に、「で、日本の英語教育はどうすればいい?」というお題は、日本の文科省やマスコミや英会話屋さんで語られているよりずっとずっと複雑なようだよ。