ゲストとホスト

グチっててもしょうがないんでね。
で、どうすっか。

思いがけず、あるディスカッションから、考えるヒントをもらった。

私が参加しているある教育関連のコミュニティで、文科省の有識者会議で提出されたあるプレゼンテーションが議題になった。
ネット上で賛否両論の嵐が巻き起こっているという。

プレゼンターは経営コンサルタント。
いかにも、という感じの効率重視の提案に、キャッチーでセンセーショナルなコメントが混ぜてある。
提案が通る通らないは別として、ネット上で話題になっているという時点で、「してやったり」なのだろう。

賛成しているのは、たとえば経済学者やビジネスコンサルタント(「経営コンサルタント」と「ビジネスコンサルタント」の区別はあるのかないのかわからないが、本人公認の肩書きに従っておく)。
反対しているのは、たとえば文芸系コラムニストや大学教員など。
コミュニティ内の反応も、大体そのラインに沿っていて、経済や経営から教育に流れてきた人は賛成派、人文や教育をやってきた人は反対派、という感じ。

それで、考えた。

これが教育という分野なのだ。
誰もが必ず何らかの関わりを持ち、身に覚えのある分野。
日本人ならほとんどが幼児教育から高等教育まで10-20年ほど教わる側として関わる。
その一部は教える側にもなり、親になれば子どもの教育を考える。
教育に感謝している人もいれば、教育に恨みがある人もいる。
さらに昨今の教育は他分野出身者の流入が盛ん。

この、多様で雑多ないろんな人たちがよってたかって持論を展開したがるのが、そしてそれを快く受け入れ、自由な議論を許容するのが、教育という分野なのだと思う。

英語教育も、もちろんそう。
英語が得意な人も苦手な人も、それぞれに持論がある。
ちゃんと勉強した人も、そうでない人も、皆が語りたがる。
パーティーなどで、私が英語教育をやっていると言えば、その場にいる誰もが競って持論や経験談を披露してくれる。
教える側には、高度な英語を使いこなす人も、怪しげな人も、視野の広い人も狭い人も含まれている。
そうやって私がいろんな人たちからいろんな刺激を受けることが、後々総合的に学習者のためになるのだと思う。

そして、そういう混沌とした中で、意見を取りまとめたり、交渉したり、選別したり、着地点を作ってあげたりして、Facilitate するのが教育が本業の人の役目ではないかと思う。

いろんな人が教育に関わってくる中で、教育が本業の人は、ゲストと一線を画し、しっかりとホストを務めなければならない。
各人の経験談を自由に語ってもらい、知恵を借り、活発な議論を促しながらも、彼らはあくまでも教育の世界に招かれたゲストであると認識し、毅然とした態度でその場を仕切らなければならない。
そうでなければ、教育にとって最も大切な学習者(生徒、子どもなど)が流行や噂や制度や気まぐれに振り回されてしまう。
教育は基本的に何でもウェルカムで取り入れることができるが、学習者の学習を妨げることはきっぱりと拒否しなければならない。

「私はこれで成功しました」と言うゲストの意見も、「私が英語で苦労しているのは教育が悪いせいだ」と言うゲストの意見も、「これさえやれば、あなたもペラペラ」と言うゲストの意見も、一通り、ちゃんと聞く。
そして、大事な学習者たちには、経験談の域を出ないものを鵜呑みにしないよう、教育を施す。
「多少できるから教えてあげます」と言うゲストの申し出も、「ネイティブだから間違いないです」と言うゲストの申し出も、「他に仕事がないから教えます」というゲストの申し出も、ありがたく受け入れる。
そして、大事な学習者たちには、自分に合った、質の高い教育を選び抜く力を養うよう、教育を施す。
保身や損得やプライドやEmotional Reasoning が渦巻く中で、学習環境を守り、なるべく門を狭めないようにする。
ただし、大事な学習者たちを“単価”と見なすような人たちにはお引取りいただく。

そういうことのような気がしてきた。

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