グチ

日本人向け英語教育なんて、研究してまでやるようなもんかね。

毎度おなじみの「私はいったい何をやってんだろうなぁ」を、ため息とともに吐露するのコーナー。

語学留学や駐妻でESLを受講しているような人たちが、「日本に帰ったら英語を教えようと思って」と言う。
で、実際そうなる。
「せっかく覚えた英語を忘れないために」「ペラペラまでは行かないけど、教えるぐらいなら」「日本では話せる方に入るから」ってな感じで、英語を教える人になる。
なれてしまう。

アメリカで学歴を積んだ日本人研究者たちが、「食うに困ったら、日本の大学で英語でも教える」と言う。
で、実際そうなる。
本当は自分の専門である文学や演劇や歴史や言語学をひたすら研究する道に進みたいけれど、その道は険しいので、大学に就職するためのステップとしてとりあえず英語の先生になって食いつなぐ。
外国語を教えた経験も、教育に対する熱意も特にないけれど、「アメリカで学位を取ったというだけで採用してもらえるから」「英語のクラスなら求人があるから」「不本意だけど、しょうがないから」英語を教える人になる。
なれてしまう。

日本人向けの英語教育なんて、そんな、誰にでもできるような、滑り止めみたいなものなんだろうか。

教育はInclusive でDiverse で、いろんな人が関わる方が良い。
学習者にとって何が功を奏するかはわからない。
裾野を広げるのも大事。
国を挙げて英語をやろうと思えば、人手はどうしても必要。
それはわかる。
わかるんだけど。
いいんだよ。
いいんだけど。
なんだかガッカリしちゃうんだよ。

何を隠そう、私も留学前に日本で英語の先生をやっていた。
教室の鍵を持って好きな時間に出入りし、部屋の模様替えから掃除まで運営を丸ごと任されて、週100人以上の子どもを私ひとりで預かっていたこともあったし、事務職員のいる学校で授業だけをやりにいくこともあったし、特定の場に招かれて講座をやったこともあった。
幼児からシニアまで、個人にもグループにも、会話も受験も資格も、一通り教えた。

当時の私の英語は、今よりも下手だった。
英語圏に住んだ経験はないに等しく、考えも甘かった。
なによりも、教え方について何も知らなかった。
ほとんどすべてが自己流。
研修のある組織で実技の練習を多少やったことはあったが、あれは提供するサービスとして均一のクオリティが保てるように従業員をしつけるという意味での練習の機会であって、教授法や理論、教育理念などとは無縁のものだった。

つまり、生徒よりちょっとだけ英語ができるというだけの素人が、何の教育的知識も持たず訓練も受けずに教壇に立ってエラそうに教えていた。
そのことが、私はとても嫌だった。
ついでに、同業者の、特に“ネイティブ講師”の言動も目に余った。
仕事は楽しかったけど、常に生徒たちへの罪悪感があった。
自分を含む、教える側がいいかげんだから、彼らの英語が上達しないんだ、と思っていた。

その視点は、たぶん正しかったと思う。
でも、だからと言って、わざわざ遠回りして修行を積むなんて、バカな選択を普通はしない。
しかも行き着く先は、あいかわらず誰にでもできるような、滑り止めみたいな場所。
膨大な時間と資金と労力を費やして、振り出しへ戻る。
はーあ。
何やってんだか。

これから日本が貧乏になって、シャキッと目覚めたら、今のようにのんびりしたことはやっていられなくなる。
もっと効率よく、効果的に学ぶ必要が出てくる。
また、無い袖は振れないという状態になれば、気前の良さだけで構築してきた関係性は維持できなくなり、より高度で繊細な言語コミュニケーションが求められるようになる。
そのとき、日本の英語教育は変わるのだと思う。
と思うけど、間違っているかもしれない。

日本の将来を見据えた新しい動きに触れて、私もがんばろうと思う日もある。
自己満足でいいじゃないの、と割り切れる日もある。
器用で賢い人たちの数に押されて、むなしくなる日もある。

はーあ。

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