Straitness

完璧主義の一種と思われる、ハードルを高く、門を狭くしたがる癖のこと。

アメリカ人の友人が私を”A wonderful photographer”とか何とか言って褒めてくれることがある。
たとえばその場に、英語がそんなに得意じゃない日本人が居合わせたら「えぇ、そうなんですか。すごい」となる。

私にはこの日本人が、私のことをカタカナの「フォトグラファー」、あるいは「写真家」、または「カメラマン」と判断したということがわかるので、すぐに「いえいえ、ただの趣味です」と言うとする。
すると相手は、また「すごいですねぇ」と言う。
あぁ、これはさっきの“訳語”の頭に「アマチュア」をつけて、休日には三脚を担いで渓流を目指すような人物を思い描いているな、と気づいて、「いえいえ、庭を散歩しながら適当に撮るだけです」など、私は自分がいかにすごくないか、懸命にアピールすることになる。

そのアピールが受け入れられ、素人が、コンパクトカメラで、たまに、気ままに撮っているだけだということが見事に伝わると、途端に相手は「なーんだ」となる。
「すごいと思って損した」みたいな。
なんなら「騙された」ぐらいの。

そのくらいでも英語では”photographer”なんですよ、と言っても、そういうのはあんまり聞いてもらえない。

日本人が好んで言いたがる「自分は“無宗教”」というのも、これに似ているような気がする。
職業として名乗れるような宗教家以外が「自分には宗教心がある」と言うためには、毎日決まった時間にお祈りをするとか毎週欠かさず教会などの施設に行くとかして「頻度」を高く保つか、洗礼を受ける、出家する、大学で宗教を専攻するなど、ライセンスや資格系のはっきり提示できる何かを持つなどの「条件」を満たしていることが、なんとなく求められる。
つまり日本語の「宗教心がある」は英語でいうところの”devout””committed””dedicated”などがつく”deeply religious”な状態のことなのだろうと思う。

そして日本語の「無宗教」の多くは、英語で言うところの”(普通の)religious” じゃないかと思いますよ、と言っても、そういうのはあんまり聞いてもらえない。

さらに、食事の前に「いただきます」と言うなど、あまりにも日常に溶け込んでいるものについては、頻度がどんなに高くてもカウント外、など独自のルールもある。

「英語ができない」もそう。
多くの日本人の英語は、まぁ上手とは言えないけど、polyglot (多言語を話すことができる人)なら「できる」にカウントしているだろうなぁというレベルではある。
日本語の「英語ができる」は”very fluent””native-like”かそれに近いあたりの高度なレベルだけに限定されていて、それ以下の「もう少しでペラペラ」も「ちょっとだけできる」も全部まとめて「できない」とされている。
独自ルールにより、中学で習った程度の英語はカウント外。
その感覚を持った日本人が英語を話すと、”I can’t speak English”なんて言っちゃったりして、「イヤイヤ、それ英語やし」と相手にツッコまれたりすることになる。

実際、そのくらいで「英語ができる」などと言おうものなら、冒頭の“フォトグラファー”な私と同じように、まずは「すごい」となって、だんだん「すごくない」になって、最終的には「なーんだ」「損した」みたいな展開になり得る。
袋叩きに遭うこともある。
だから「できない」と言っておいた方が安全…と、そういう論理になるんだろうね。

日本語で「英語ができる」と言うためには、英語圏に住んで「頻度」を高く保つか、資格や学歴、あるいは英語使用歴が長いなどの「条件」を整えてばばーんと提示するかしないといけない。

ちなみに私はいちおう「英語ができる」と判断されていて、その判断の根拠となるものはいろいろありそうに思うのだけど、日本の人たちに「条件」として最もよく選ばれているのはダントツで「TOEIC満点」。
おもしろいでしょ。
そんなもんっすよ。

聞くところによると、昨今は「ファン」というのもかなり狭き門になっているらしい。
テレビで見て応援するぐらいではファンのうちに入らなくて、「毎回欠かさず握手会に行く」とか「ファン歴が長い」とか、それなりに「頻度」や「条件」を整えないと「そんなのファンとは言えない」と却下されちゃうらしいよ。

白か黒か。ゼロか全部か。
Polarized Thinking。
心理学的にもお勧めしてないようだけど、英語教育的にもね。
その感じを保とうとすると、英語は上手になりにくいかもよ。

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「Straitness」への4件のフィードバック

  1. "A photographer" は日常会話に出てくる "a good photographer" よりエラいんだと思うことが度々です。

  2. うーむ。よくわかりませんが、これは褒め言葉のインフレというようなことでしょうか?それとももっと哲学的なことですか?

  3. うーむ、何というか、たとえば、”I’m a photographer.” とストレートに自己紹介されると、それでメシの食えてる存在、押しも押されもしない存在という気がするのです。

    ちんけな形容詞をつけるのは、畏れおおいというか。ただ、これは私が個人的に、写真家という存在にとくに感じていることなのかもしれません。

  4. うーむ。それは自己紹介にひとりよがりの評価を混ぜてしまうと未熟さが際立つという話で、”photographer”とは関係ないのではないでしょうか。私も場面によって自ら”I’m a photographer (またはresearcher、translator など).” と言うことがありますが、それは単なる自分の役割の説明であって、それ以上の意味はありません。

    本文に書いたとおり、やはり日本人にはこの「単なる役割」を「プロ」など上層に限定して解釈する癖があり、「すごい」「エラい」と感じやすいということでしょうね。気をつけます。

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