“無宗教”

日本人の言う「無宗教」のこと。

アメリカで出会う日本人の中に「自分は無宗教である」ということを、割ときっぱりと、強めに言う人がいる。
結構、いる。
「その“無宗教”って、どういう意味?」と聞きたくなるが、私も日本人の端くれなので、日本語で話しているうちは、日本の辺境的特殊文化においていうところの“無宗教”のことなんだろうなと、ふんわりめに理解しておくようにしている。

ただし、同じ人が英語で話すときに”I have no religion.”などと言ったりするのはちょっとどうなんだろうと思う。
さらに主語が”Most Japanese people” なんかになってると、さすがにちょっと待ってと言いたくなる。

私は自分のことを”Japanese Buddhist” だと言っている。
そして、日本の仏教は、その名前から連想しやすいBuddha→Buddhism ではなく、Shinto+Buddhism であるという説明を加える。
それ以上の話は相手によってしたりしなかったり。

「日本人でReligious だという人に初めて会った」と珍しがられることもある。
そういう場面で私は「日本人のReligiosity は説明が難しいんだよ」と言う。
日本人は「宗教のようなもの」(参照)に日常的に馴染んでおり、それがあまりにも日常的なので宗教と意識していないのだ。
お守りを身につけ、「縁起」を気にし、パワースポットへ出かけ、クイズ番組などで正解が出るまで必死で手を合わせていても、まだ「自分は無宗教だ」と言い切れる。

私は仏壇と神棚の同居する家で育ち、折に触れ、近所の氏神さまで厄祓いをしてもらい、お寺へお墓参りに行き、法事に参加してきた。
輪廻はありそうだと思っている。
ときどき拍手(かしわで)を打ち、ときどきお経をあげる。
自分の経験が日本の標準だと主張する気はないが、この「ときどき」感が、日本人の宗教観を理解する上での大きなポイントだと思う。
崇拝の対象はいろいろあってよいという考えで、その延長として、特定の“神”だけを信じている人がいても、まぁそういう人もいるんだろうねという程度で、それをどうこうしようとは思わない。

一神教の人に「ではそういう神社仏閣へ行ったとき、あなたは誰に祈りを捧げているのか?」と聞かれることがあるが、それに対する私の答えは「わからない」。
そもそも“祈り”の定義も怪しいが、まぁ祈っているとしても、「誰に」かと問われると、誰だかわからない。
神社とお寺で、“祈り”の対象が変わるかと言われると、それはないような気がする。
私個人の対象はいつでも概ねご先祖さまのような気がするが、要するにそれは神 (“Kami” not God) および仏のうちで、私が最もイメージしやすいのが祖父母だから、そうなっているだけじゃないかと思う。
人によってはそれが他の人物や動物かもしれないし、山などの地形かもしれないし、自然全体かもしれない。
対象を決めず、誰でもいいから叶えてくれるようにと、ただ願い事だけをつぶやいていてもアリなのだと思う。

たとえば境内に一日張り込んで、参拝客を捕まえては「いま、誰に対して祈りましたか?」と聞いても、多くの日本人は答えられないか、あるいは答えがバラバラになるか、そんなところだろう。
そのあやふやな感じが、特に一神教の確固たるグイグイ感を目の当たりにしたりすると引けを取るように思えるのかもしれないが、日本人が Kami の意味を曖昧にしたまま平気でいられるのは、An inclusive religion(参照)である神道のおかげだと私は肯定的に捉えている。
そして、このことと無宗教とはまったく別のものだと考えている。
「自分でもよくわからないし、どうせ相手もよくわからないだろうから、とりあえず“無宗教”ってことにしとこう」では、本当の無宗教の人に失礼だろうと思う。

日本人同士など、お互いに「ま、アレだよね」ってな感じで、背景などを共有できている場合はいいけど、特に日本文化に馴染みのない外国人と接する人が、英語で”No religion”とか、いとも簡単に言い切っちゃうのはやめてほしいなぁと思う。

宗教について多くの著書があるイギリス人作家のアームストロングは「宗教と信じることは別」だと言う(参照)。
There’s also a great deal of religious illiteracy around. People seem to think, now equate religious faith with believing things. We call religious people often believers, as though that were the main thing that they do. And very often, secondary goals get pushed into the first place, in place of compassion and the Golden Rule.
(宗教に対する理解のなさも大きいと思います。人々は信仰と物事を信じることが同じだと思っているようです。最も重要なのは 思いやりの心や黄金律なのですが、さほど重要でない目的ほど前に出されるというのはよくある話で、「信者」という呼び方のせいもあって信じることが中心のように見えます。)

信じること抜きで宗教を持つ。
別に信者にならなくてもいい。
このあたり、日本人は案外すんなり理解できるんじゃないかしら。
これをテーマに多国籍な場でディスカッションさせたら、日本人はおもしろい発言ができるかも。
そしてそれって結構すごいことだと思う。

文科省の「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」の中には「日本人としてのアイデンティティーに関する教育の充実について」が含まれている(参照)。
外国で、Japan Studies や Japanology と呼ばれているような「日本についての知識」ではなくて、「日本人としてのアイデンティティーに関する教育」なんだよね?
だからさらっと「道徳教育」を入れているんだよね?
この期に及んで「宗教」を避けて通ろうってのは、無理があるんじゃないかなぁ。

日本人が宗教を語る場を作るとしたら、突破口は英語教育なのかもしれないと思う。
実際、アメリカに住んでいる日本人は、教会が提供するESLやBible Study を通じて行う英語教育を特に抵抗もなく受けてるんだからさ。
宗教アレルギーは英語で薄まるのかもよ。
自分たちの宗教観を外国語を通じて初めて学ぶ国なんてなかなかないだろうけど、そこはホラ、お得意のガラパゴスで。

「ある調査によると、日本人の70%以上が自らを無宗教だと言っています。しかし日本国内には16万を越える神社仏閣が存在します。このことを、外国人にわかるように英語で説明しなさい」
…とか、そんな感じでタブレットでも与えて、グループプロジェクトをやったらいいじゃない。
入試や英検の面接にもどうぞ。

「“無宗教”」への2件のフィードバック

  1. Japanese Buddhist という言い方はいいですね。私も採用させてもらいます。
    私は、日本人の Buddhism は、Japanese Shinto との hybrid だと説明していましたが、Japanese Buddhist といえば、話が早いですね。
    「大日本佛法最初四天王寺」 との石碑がある大阪の四天王寺には、鳥居があるし、豊川稲荷はお寺というぐらいのものですからね。

  2. どうぞどうぞ。使ってください。
    アメリカには改宗した人も含めて仏教徒が多いですから、Buddhist で一括りにはできないなという感じがあります。それで「私のはJapanese Buddhism だよ」と言うようになりました。

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