因果応報。自業自得。
自分で蒔いた種。
自分のやったことは、自分に返ってくる。
良いことも悪いことも。
「身から出た錆」というが、出るのは錆ばかりではない。
光や宝も出るし、毒もゴミも出る。
何かすればそれなりの報いがあり、何もしなくてもそれなりの報いがある。
私は“絶対”の類を軒並み信用していないし、今のところそれらに縋る予定もない。
が、もしこの世に完璧というものがあるのなら、それは因果応報系のシステムではないかと思っている。
因果応報システムは、それを信じない人にも、否定する人にも、等しく、容赦なく、常時淡々と機能している。
システムに抵抗しようとすれば、それなりの報いがある。
恐ろしいほど公平で、冷静で、漏れがない。
今の私の身に起きていることは、過去の私がつくった因縁の結果。
自らの業によって果報を自ら招き受ける。
今の私が蒔いている種は、将来の私が刈り取ることになる。
その意識に私はかなり束縛されている。
人は皆、幸せになりたいらしい。
ならば全員が幸せになったらいいと思う。
なろうと思えばなれるだろうとも思う。
「袖振り合うも多生の縁」なので、特に私が出会った人たちにはぜひとも幸せになってもらいたいと思う。
でも、どうやらそうはいかないみたい。
各人の「幸せになりたい」という望みも、他人の「幸せになってほしい」という願いも、因果応報システムの前には無力のようだ。
「幸せになりたい」と望みながら、その本人が、弱さや欲やプライドや怠慢に邪魔されて幸せを遠ざける行いをしていれば、当然、幸せは遠のいていく。
そういうふうにできている。
そこに誤作動やごまかし、温情の入る隙はない。
とても、とても残念なことだけど、全員が幸せになることはない。
幸せになれない人はいる。
それは本人にとっても辛く悲しいことだが、同時にそれは本人以外を辛く悲しくさせる。
幸せにならない人の周りには、そのことに、本人以上に心を痛めている人がいる。
幸せにならないというのは、決して本人だけの問題ではない。
罪深いことなのだ。
日々、幸せにならない選択をしている人は、せめてそのことを知ってほしいと思う。
因、業、種の段階で、行いを変えることができなかった。
その報いを、本人は受け入れるより他にない。
単純明快、さっぱりしたものだ。
しかし、報いを受けるその姿を目の当たりにさせられる人には、さまざまな思いが渦巻き、なかなか受け入れることができない。
自分には何かできることがあったんじゃないか。
まだ何かできるんじゃないか。
代わってやることはできないだろうか。
「だから言ったじゃん」と責めたい思いもある。
そういう余地や余力があるだけに、辛いのだ。
動かしようのない結果を前に、どうしようもない気持ちと、ひとりで闘わなければならない。
しかし、そこにも因果応報システムが見事に働く。
本人には、報いを受けるだけの理由がある。
その場に居合わせた人にもまた、居合わせた理由があり、辛くてもそれを見届けるだけの理由がある。
全部ひっくるめて報いなのだと気づく。
そして今それを理解し、受け入れるにしろ、抗い反発するにしろ、逃げて先送りにするにしろ、その行いが将来の自分に報いとなって返ってくる。
しょうがない。
ようやく折り合いがつく。
そういうふうになっている。