当事者以外の目を意識する、という習慣について。
ずっと前にどこかで書いたような気もするけどなぁ。
検索しても見つからないから書いてなかったのかな。
ま、いっか。
当事者同士が見つめ合い、あるいはにらみ合いをしているとき、大事なのは「その周りには、当事者たちを見ている人がいる」という意識だと思う。
私はこれを教室に立つようになってから学んだ。
最初は子どもたち。
子どもは予期せぬことを突拍子もないタイミングで遠慮なく差し込んでくる。
私は“アドリブ欲”が旺盛なので、そういうのは基本的に好きで、どう転んでもおもしろいと思える性質だが、それでも、不意を突かれて一瞬ウッとなることもある。
子どもたちはそれを見逃さない。
私が「ウッ」となったことをおもしろいと思う子は、また私を「ウッ」とさせたくて何か仕掛けてくる。
教育実習などで他の人の授業を見学すると、生徒の前では「ウッ」となるまい、なっても見せまいとする人が多いことに気づく。
その「なるまい」「見せまい」はバレバレなのにね。
私は何でもいいから新しいことを考える子が好きなので、仕掛けられるのは大いに結構なことだと思う。
ただ、残念ながらその取り組みはそううまくいかない。
なぜなら子どもたちは私の「『ウッ』という反応」に気を取られて、「何が私を『ウッ』とさせたか」を見逃しているからである。
似たようなことは、アメリカの大学院生を相手に講義をしているときにも起きた。
子どもたちと同様、何気ない質問が意外と鋭いという場合もあるが、院生たちの場合は、ある種の“挑戦”を仕掛けてくることもある。
質問が始まった時点では、質問者は私の方を向いているが、他の人の目線はバラバラ。
質問者を見ている人もいるし、本などの文字を読んでいる人もいるし、なんなら窓の外を見ている人もいるだろう。
なんでもない質問のやり取りの場合は、みんなの目線はそのまま。
私も質問者に向けて返答をするだけ。
私と質問者の、1対1のやり取りで終わる。
鋭い質問や“挑戦”系の発言があったとき、クラスという集団は瞬時に、同時に反応する。
学生たちの目が一斉に私に向く。
私がどう反応するか、何と答えるかを見逃さない。
質問そのものはどうでもいい。
質問や返答の内容より、私の対応の仕方の方が彼らの記憶によく残る。
だから私はクラス全体に向かって返答をすることになる。
私と質問者のやり取りを公に晒しているという意識が生じる。
その意識は日常生活においても利用できる。
集団の中では、黙って見ている“その他大勢”を意識した言動と、そうでない言動は、全体に与える影響が違う。
主に感情が高ぶっている場合など、当事者同士がお互いだけを対象にした言動をしていることがある。
本人たちは密室で1対1でやり合っているつもりだが、実はそれが一般公開されているような状態である。
そのやり方は、当事者同士の内的な関係性にとって、短期的にも長期的にも、あまり実りがない。
当事者を包む集団を含んだ外的な関係性について言えば、ほぼ意味がなく、往々にしてネガティブな印象につながる。
意見がどんなに素晴らしかろうと、議論がどんなに充実していようと、当事者間の“勝敗”がどうであろうと、他の人の記憶により強く残るのは、その様子。
当事者、特に仕掛けられた側の持つ社会性のようなものに対する評価である。
そのときの評価が、後々、集団の中でモノを言うことになると思う。
さらに、コーチングのように実際には1対1のやり取りでも、私の対応を誰かが見ているという架空の設定をして、その意識を持っていた方がよい気がする。
「誰か」とは、コーチングの師匠であるRでも、幽体離脱した私の分身でも、“お天道様”でも“カミサマ”でも、誰でもいい。
その「誰か」がどういう印象を持つかということを起点にすると、自分のパフォーマンスの評価がしやすいように思う。