過去を振り返って、改めて気づいたこと。
KECを立ち上げるに至った経緯を聞かれ、①英語教育経験者、②英語学習者、③研究者、の3つの立場からアイディアに行き着いたんです、という話をした。
①は日本で英語を教え、アメリカで日本語と英語(ESL) と英語教育(TESOL)を教えて、いろんな母語話者が言語学習をする様子と比べると、日本人の英語学習者はちょっとズレてるな、とか、日本の英語学習環境はもうちょっとどうにかならないのかな、と感じたこと。
日本国内においては教室内がほぼ唯一英語を使う場なのに、そこでテキストどおりの人工的な会話を暗記したり、先生と生徒が直接会話してしまって、指導者がいない、というのは、貴重な時間があまりにももったいないな、と。
②は私自身が英語学習者である、ということ。
日本語教師をかじった程度にやってみて、私はネイティブ役には向いていないと感じた。
お手本を見せるより、学習者と一緒になって「英語って難しいね」という方が好みなのだ。
KECの種が生まれた頃、私はすでにアメリカの大学院に3年ほど在籍し、TESOLの修士号取得後、コミュニケーションの修士と教育の博士に二股をかけ、TESOLでクラスを持っていた。
生活にも学業にも仕事にも支障はなかったが、自分の英語には、あいかわらず、ちっとも満足していなかった。
周りにはアメリカ人のESL教師がたくさんいたので、彼らに個人指導をしてもらったり、私の英語力を伸ばすカリキュラムを考えてもらうよう依頼したが、「emi に教えることなんてないよ」とかなんとか逃げられて、良い方法が見つからなかった。
③は、特に会話分析の研究から。
当時、コミュニケーションの修士論文の準備をしていて、博士論文のパイロットを兼ねた研究をしていた。
日本に住む日本人が外国人と英語で話すのを録音し、そのデータをアメリカに持ち帰ってひたすら聞いていた。
そこには、その日本人がどんな英語学習をしてきて、どこで行き詰まり、何を苦手とし、どんな迷いがあるのかが、はっきりと現れていた。
一口に「英語ができない」といっても、内容は人それぞれ。
本人も、何ができないのか、わかっていない。
この情報を本人たちに届けられたら、本人たちにこのデータを聞かせ、分析結果を見せられたら、その人だけの、最適な学習プログラムが組めるのに、と思った。
しかし、彼らは被験者なので、データ収集後に連絡を取ることはできなかった。
そこで、最初から本人専用の学習プログラムを組むことを目的とした、会話と録音の機会を与える場を作ることを思いついた。
…というような話をしたところ、こんなコメントをもらった。
「ということは、最初っから『言語コーチングやるぞ!』と思っていたわけではないんですか。
『コーチになりたい』からスタートして、そのために留学した、とか、会話分析を勉強した、とか、そういうことではないんですね?」
おぉぉ。
私にとっては、この上なく斬新な視点。
でも、「普通はそういう方が多いんですよ。何かになりたい、じゃあそのためにはどうしたらいいか。でもemi さんはそうではないんですね」。
ほほー。
そもそも外国には興味がないしね。
留学はイヤイヤだったしね。
会話分析の世界は偶然立ち寄ったらハマっちゃったんだけど、それだって、自分でデータを採るまで下積みが数年あって、その間はアメリカ人の会話しか触ってなかったから、日本人の英会話を分析したらどうなるか知らなかったし、それが英語教育とこういうふうに結びつくとは意外だった。
起業も、自分にはまったく縁のないことだと思っていた。
日本人の英会話の分析をして、「これ使える!」と思いついたちょうどその頃、無理やり持たされた第二言語習得理論のクラスのために、歴代の流行した理論のおさらいをして、またちょうどその頃、交通事故をきっかけにカウンセリングやコーチングに出会った。
点と点がつながり、なんとなく全体が一つにまとまってきても、「私が思いつくぐらいだから、世の中には同じことを思いついて、すでにやってる人がいるでしょ」と思っていた。
だって、私の目にはすべてが当たり前に映っていて、突飛なことは何一つなかったから。
すでにやってる人のお手伝いでもさせてもらおうと思っていた。
で、探したけど、いない。
「マジすか」と思った。
誰かやればいいのに。
たぶん面倒だから、かつ効率が悪くて儲からないから、誰もやんないんだろうな。
んじゃーしょうがない。
それで、しぶしぶ自分でやることになった。
…という経緯があったのだなぁと、思い出した。
ただ、今回は時間の都合もあり、ここまで詳しく説明する必要もないので、「行きあたりばったりばっかりなんです」とだけ伝えた。
でもせっかく思い出したので書いておこうと思って、こうしてここに残してみた。
「やりたいこと」が見つからない人が多いと聞く。
「やりたいこと」は、そりゃあればあったで便利だけど、なきゃないで、別にいいんじゃないの、と、夢も希望もない私は思う。