『“理系”と英語教育』(参照)の番外編。
“文系”にも「英語が苦手」な人はいるわけで。
“文系”の中でも文学や歴史や国語(日本語)という言語に関わりの深い分野を専門にしているような人で、アメリカに住んで生活していても、「自分は英語ができない」と言う人がいる。
言語の研究者も例外ではない。
夏は査読の依頼が多い。
ジャーナル掲載を目指して投稿された生原稿を読んで掲載に見合うかどうか審査をする仕事だ。
Double Blind Reviewなので、どこのどなたが書いた論文かはわからないが、私は日本人の書く英語を見慣れているので、書き手が日本人か非日本人かは概ね見当がつく。
そして、日本の大学にしか所属していない日本人の書いたものと、海外の大学に所属した経験のある日本人の書いたものは、その違いがはっきりわかる。
私が審査するような論文は、もれなく言語の研究に関するもの。
一般の人は、言語について研究し、英語で論文を書いて投稿するような人は、全員英語が得意だと思っているかもしれないが、現実はそうではない。
“文系”で英語が上手な人と、“文系”で英語が苦手な人との違いは、「論理的」か「感覚的」かの違いである。
あら、“理系”と同じじゃんと思った方、正解。
“科学英語”という名の、Academic Writing に近い領域で、英語の読み書きの練習が必要な人は“文系”にもいる。
“文系”でも“理系”でも、感覚に頼っている人は、辞書を引かず、文法に無頓着で、広く浅く速く軽く、言語の表面をしゃーっと滑るように進んでいく。
他の人の論文を読み、発言を聞いていても、頑なに真似ない、盗まない。
自分の発言を振り返らない、書いたものを読み返さない。
英語教育側の課題は、彼らをどうにかして立ち止まらせ、一所に長く留まれるように、ある種の我慢をさせることだろう。
ただ、“文系”の場合は、自分が感覚的であると自覚していることが多く、「なんとなくでいいのよ」と開き直っている人が結構いる。
ま、実際それでいいこともあるし。
そのおかげで、同じ感覚派でも、“理系”より“文系”の方が英語を使うことに対して抵抗が少なく、平気で使える分、ある程度は上達する傾向がある。
そこで悩まずに済めばラッキー。
意外と楽しく健やかに英語ライフを送ることができちゃう。
しかし、“文系”感覚派が「だいたい通じりゃいい」の範囲を越えて、たとえばきちんとした話し方・書き方を学ぶ必要に迫られたり、一念発起して「もう『テキトー』は嫌だ」とか言い出したりすると、なかなかややこしいことになる。
感覚派の言う「できない」はあくまでも自己申告であって、事実とは限らない。
また、その「できない」は必ずしも「だからできるようになりたい」と続くとは限らない。
「できればできるようになりたいけど、すごく大変なのは嫌だし、痛い目や恥ずかしい思いもしたくないけど、今よりもう少し、なんかこう、ペラペラぺラッてなれたらいいな」みたいなことを本気で願っていたりする。
私はあいにく感覚派じゃないので、訳がわからなくなり、つい「本当は要らないんじゃないの?」とか「やめといたら?」とか言ってしまうのだが、それは感覚派を感情的にさせるだけで、ほとんど効果がない。
“文系”感覚派が「英語ができない」と言い張り、かつ、学習しないように努めている場合は、心理的な何かが作用している。
もし本当に英語を上達させる必要があるなら、すぐに学習に飛びつくより、まずはカウンセリングから始めて、「本当はどうしたいか」を丁寧に掘り下げていこう。
気長に、ゆっくり、じっくり話を聞いてくれる人を探し、学習の動機や目的について、深くよく考えよう。
心理的作用として考えられるものの一つは、Comfort Zone。
“文系”で英語が苦手な人は、そうは言ってもある程度はできるから、現状でも生きていけないほど困ってはいない。
その困っていない状態をわざわざ壊して、自ら苦しい道を選ぶのには勇気が要る。
そこまでする必要性があると本人が納得しない限り、せっかく学習を試みても長続きせず、成功する可能性は低い。
もう一つは、母語の能力の高さ。
「できない」同様、これも自己申告に過ぎないのだが、“文系”は自分の母語(日本語)の能力を高く評価している傾向がある。
これが災いする。
自分の日本語の能力は平均的な日本人より高いという自信が、優越感につながっていることがある。
その人が、たとえば英語圏に住んでいれば、周りの人と比較して自分の言語力(この場合は英語力)が平均以下だという状態に対して、劣等感を抱えやすい。
それで、自分の英語力が平均を超えるまでは、あるいは自分の英語力が日本語力と同等になるまでは、「英語ができない」と評価する。
日本人がいる場では英語を一言も発しないという人もいる。
プライドとか、完璧主義とか、そこらへんね。
ま、英語を上達させたい気持ちがないわけじゃないんだろうけど、実際には学習しないことを正当化していたり、「英語は要らない」と決めているところもあるのだろうから、それならそのままでいいんじゃないと思う。
「でもやんなきゃ」と自ら不要な負荷をかけたり、焦ったり、自己嫌悪を起こしたりするのはよくない。
表現に工夫は要るけど、かける言葉はやっぱり「やめとけば?」なのだ。
だいたい通じるんだし、なんとなくわかるんだし、テキトーに楽しいんだから、それでいいじゃない。
You can lead a horse to water, but you can’t make it drink.
(馬を水場まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない)
最終的にどうするかは本人が折り合いをつける。
本人以外にはどうしようもない。
というわけで。
“文系”で「英語ができない」と言う皆さん、たぶんそのままで大丈夫なので、いったん英語のことは忘れましょう。
冷静に考えて、それでもやる気が残っていたら知らせてください。