“理系”と英語教育-1

日本の英語教育の一分野に“科学英語”というのがあるようだ。

English for Specific Purposes (ESP) というのがある。
その名のとおり、「特別な目的のための英語」。
ある特定のニーズを持った集団の中で使うための英語のこと(参照)。
具体的には、ビジネス、医療、接客、観光、芸術など、特定の領域に関わる人のために、そこで使われる英語を重点的に学習できるよう、その集団の人にとって「あるある」な場面ややり取り、表現などを抽出したもののこと。
時代や土地によって、ニーズは変化する(参照1 参照2)。
ESL(第二言語としての英語)、EFL(外国語としての英語)の中でも、特に成人向けの英語学習にはESPを入れているものがよくある。

当然、ESPの中にはScientific English も含まれている。
そもそもESPはScience から始まった(参照)。
Science という特定の分野内で、その集団の中の人と交流し、意見交換したり新たな知見を得るという特別な目的のもと、そこで使用される英語を集中的に学習するというニーズがあるのだ。

しかし、日本の英語教育的に言う“科学英語”はこれとは別のもののようだ。
『科学英語』というキーワードで検索してみると、サイトや本、記事がたくさん見つかる。
これらをざっくり見渡すと、どうやら“科学英語”というのは、「理系の日本人が間違えやすい英語」「英語で学会発表するときのノウハウ」「論文の書き方:英語の場合」というあたりのことを、親切に伝授する分野のようだ。

内容としては、たとえば
「~の条件で」「その結果」など、論文によく出てくる表現の英訳や、「この場合は’the’、この場合は’a’、この場合は冠詞なし」「コロン、セミコロンの使い分け」など、基本的な文法を説明している(参照1 参照2)。
説明のための例文には、科学にまつわる用語や数式が使われている。
ま、そういうのの方が見慣れてるだろうからね。

ふむ。
これ、いろんな角度から検証できそうな、ネタの宝庫だよね。
「“理系”と英語教育」。
長くなりそうなので、2回に分けて書こう。

ちなみに私は“理系・文系”の議論から足を洗い、個人的にもう区分をしないことにしているが(参照)、今回は便宜上“理系・文系”を使っていく。

まずは「英語教育」側から。

“科学英語”に関するサイトや本を執筆しているのは、理系の日本人が多い。
「自分がしてきた苦労を、後輩のために役立てたい」という優しい心が垣間見える。
情報を受ける/教わる側としても、「餅は餅屋、理系は理系」で、自分と同じ理系の人で、たとえば海外で学位を取った教授や、国際学会経験者の言うことなら聞きやすいという部分があるのかもしれない。

著者の一部には、日本人の書く英語の論文をよく知るネイティブもいる。
彼ら自身の専門は言語学など、必ずしも“理系”でない場合もあるが、そこは何しろネイティブ。
日本人の論文で、読んでいて引っかかってしょうがないところ、なかなか直らない癖など、共通するところを指摘し、「ここがヘンだよ」と教えてあげようという心遣いである。

で、私の疑問は「日本の英語の先生はどうした?」ってこと。
英語教育の専門家は、この分野に入ってあげなくていいの?

「餅は餅屋、理系は理系」というのは、ESPにおける Scientific English を教える場合には正しい。
でもこの“科学英語”は、興味の範疇が科学ってだけで、やってることは「英語」でしょ。
ということは、ここで言う「餅」は「理系」じゃなくて「英語」。
それも「日本人の英語」。
日本人の英語をよく知り、教える技術のある人の出番じゃないの?

日本人の英語の先生は、いわゆる“文系”に属するので、“理系”のこととなると怖気づいてしまうのかもしれない。
でも、だからと言って、見て見ぬふりはできないでしょ。
学習者がたまたま“理系”でも、英語に困っている以上、英語教育のプロが助けてあげましょうよ。

たとえば私は数字はカタコトだし、脳が3D非対応なので、“理系”な話はさっぱりわからない。
でも、必要に応じて『Science』などの論文も読むし、宇宙の話も、細胞の話も、数学の話も聞く。
専門的なことはさっぱりわからないが、英語である以上、最初から最後まで何一つわからないということはあり得ない。
わかるところは必ずある。
わかったつもりで誤解していることもきっとあるが、専門外というのはそういうものだから構わない。

それは、たとえば“文系”でも、法律や政治、経済、経営、宗教、芸術など、専門外なら同じことが起きる。
教育や言語の範囲内でだって、わかるところとわからないところがある。
隅から隅まで私が全部わかるのは、私が書く論文だけ。
それ以外には必ずわからないところが含まれている。
「わからないところがあるから近づかない」なんて言っていたら、何にも読めない、何も聞けない。

ここらへんのことは、「Teacher たるもの、教室内の誰にも負けない知識を持ち、どこを突かれても毅然としていなければならぬ。Teacher が『わからない』などと言うことは許されぬ」的なインチキ武士みたいな信条が影響していそうな気がする。
いいんだよ、知らないことがあっても。
知ってることもあるんだから。

私が分野を問わず雑食を心がけているのは、個人的な興味もあるが、実務的な理由もある。
コーチングの受講生の専門分野が何であっても、ある程度の対応はできるようにしておきたいということだ。
私の「わかる」と「わからない」の区別は、すなわち「英語の話」と「専門的な話」の区別なので、私の「わかる」は受講生の「わからない」であり、私の「わからない」は受講生の「わかる」なのである。
私が「この用語はちょっと何のことかわかりませんが、ここに冠詞が要りそうですよ」とか、「文法的に見て、形容詞の方が自然な気がします」とか、「文脈からすると、おそらくこの部分の説明と関連した語が入るんじゃないですかね?」とか言えば、たいてい受講生はピンと来る。
それで受講生は「専門的な話」に加えて「英語」もわかり、全体的に「よくわかる」ようになる。
私の方は「専門的な話」はあいかわらずわからないまま放置されるのだが、それはそれで構わない。

というわけで。
日本の英語の先生の皆さん、もっと積極的に理系の日本人を助けてあげましょう。

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