結局のところ教育というものは、欲との相性が悪いのだと思う。
「教育とカネ儲けは混ぜるな危険」だと何度も書いてきた。
教育にお金は必要。
設備や人材育成はもちろん、細かな日々の教室運営にだって、お金はかかる。
だから教育は無償では難しい。
でも、そのことと、教育でお金を儲けることとは全然違う。
教育に金欲が混入してくると、教材は商品に、先生は営業マンに、教室は商店に、学校は経営の場に、生徒はお客になる。
商売はできても、そこに教育は生まれない。
教育は自己顕示欲や名誉欲、承認欲の類とも相性が悪い。
たとえば英語の先生が、ハイテンションでペラペラしゃべるのを披露したり、「私のようになりなさい」と“お手本”を示したりして自らの気持ちよさを追求しているような場では、教材は宣伝材料に、先生はアイドルに、教室はステージに、生徒はファンまたはアンチになる。
ショーはできても、そこに教育は生まれない。
教育は支配欲とも相性が悪い。
密室で脅しをかけて強制的にさせるような学習は、短期的には効果があるように見えても、自らの目標を達成するような学習、学習者の成長にはつながらない。
学習されるのは先生や親の怒りや罰を回避する術、周囲の顔色をうかがい、自らの感情を偽る術など。
ここ30-40年の教育分野のさまざまな研究に加え、今後は脳科学の進歩とともにBrain-based Learning 方面でもっとはっきりしたことがわかってくるだろう。
教育は欲の強い人には向かない。
なにしろ教育は、非効率でハイリスク、リターンは少なく、ノーリターンという場面も多々ある。
経済学的に見たらバカみたいな場所なのだ。
教育する側の欲が学習の邪魔をするのは、それが学習者側の欲を奪ってしまうからではないだろうか。
私は、教育を与える側と受ける側の欲は反比例の関係だと思う。
欲むきだしの人を前に、学習者はやる気を失い、欲のない人を前に、学習者は知識欲を刺激され、学習意欲を高め、勝手に学習効果を上げてきそうな気がなんとなくするんだよ。
名付けて、「教育者の欲が少なければ少ないほど、学習者の欲が増える」仮説。
誰か研究してくれないかなぁ。
学習者の欲は教育にとって望ましい。
学習者の欲をどんどん引き出し、それを剪定せず、学習者が伸びたい方向へ伸びて行くのを、にこにこしながら見守るのが教育だと思う。
その結果、たとえ「キレイ事を言ってちゃダメだ」とカネ儲けに走る学習者が出てきたとしても、それは私の好みの方向ではないというだけで、教育としては成功である。
「どう伸びてもいい」と言う以上は、社会のルールに反しない限り、伸び方をあらかじめ想定したり、特定の個人的好みに押し込めたりすべきではないと思う。
安心して成長できる場を整え、全力で応援し、必要ならば手を貸し、不要ならば引っ込み、予期せぬことを楽しみ、反発を喜び、裏切りを許し、孤独に耐え、別れを受け入れる。
与えられるものはすべて与え、見返りは求めず、相手の幸せだけを願い、静かに祈る。
結局のところ教育というものは、愛でできているのだと思う。
>結局のところ教育というものは
>愛でできているのだと思う。
これを 「単なるきれいごと」 と思ってしまう教育者が多いんで、おかしなことになっているんでしょうね。
愛情をたっぷり受けて育った人が親や先生になって、教育はその愛をペイフォワードする場だと考えることが、世の中の当たり前になったらいいですね。