年下の友人との会話をきっかけに、考える。
彼女は今春、有名大学を卒業して、現在は久しぶりの実家暮らしをしながら就職活動中。
そういう背景もあり、岐路(参照)とか節目(参照)の話になった。
私も彼女も、“岐路”を感知するタイプ。
で、「どうしようっていうとき、どうしてる?」と聞くと、彼女は「一人で考える」と答えた。
相談相手として思いつくのは親だけど、心配をかけたくない、ガッカリさせたくないという気遣いから、親には相談できない。
友達はある特定のイメージで自分を見ていたり、自分の悩みどころと関係のない世界の人たちだったりするので、相談相手にならない。
それで、誰にも言わず、じっと一人で考える。
何ヶ月も。
そして結論が出たら、勇気を出して周りに伝える。
私とはまったく違う対処法だったので、その場では「私はすぐ人に相談しちゃうタチだから、一人で何ヶ月も秘めてるなんて無理」と言ってしまった。
が、あとになって、あ、間違えたと思った。
私も彼女くらいの年齢までは、そうだったと思い出したのだ。
子どもの頃から、良く言えば意志が強く、口が固く、悪く言えば秘密主義で意地っぱり。
親や友達に悩みを明かしたことなど一度もなかった。
友達から相談を受けることは多かったので、他の人がそういう方法を取っていることは知っていたが、自分はその方法を取らなかった。
取れなかったのだと思う。
他の人に甘えたり頼ったり、助けてもらうことの意味がわかり、それをありがたく思えるようになったのは、たぶん20代中盤以降だろうと思う。
以来、“岐路”が現れるたびに周りに相談しまくるようになった。
そして多数決の結果、私の望む選択肢には私以外の得票はなく、もれなく希望しない道を選択することになるのだが、それはまた別の話。
“岐路”はいつでも誰にとっても一大事だけど、大人の“岐路”は一人では抱えきれない場合が多い。
私は偶然にも複雑な問題に直面するまでに相談できる体質に変わることができていたので、それ以降の“岐路”にもなんとか対応できたが、もし子どもの頃のまま誰にも言えずにいたらどうなっていたんだろうと思う。
危なかった。
あるいはこれも「鶏が先か卵が先か」的なことで、
相談できる誰かがいる人ほど、“岐路”での経験をよく吸収して、また次の“岐路”を迎えやすいのかもしれない。
誰にも打ち明けられない人は“岐路”を前に迷い、選択を避ける傾向があるかもしれない。
カミサマは力のついていない人には、複雑な問題をお与えにならないような気もする。
まだ若い彼女は、自分の答えは自分ひとりで出せると思っている。
それは本当にそうなのかもしれないし、そういう時期はあっていいと思う。
でも、まもなくそうはいかなくなる。
そのやり方で立ち行かなくなったとき、周りに助けを求められる人に自然に変化していくか、自分のやり方を押し通して、問題の本質から目を背けるか、その“岐路”での選択は、その後の人生に大いに影響するのだと思う。
どちらを選ぼうとも、それは彼女の自由だけど、私は自分が相談できるようになれたことと、相談相手になってくれる人がいてくれたことに感謝している。
そして私もまた、次の段階が近づいているのだと感じる。
「相談できない」から「できる」を経て、今度は「相談しない」人になっていくのだと思う。
「しない」のは表向きの話で、本当はしてるんだけどね。
“岐路”を前に、バーチャルな相談相手たちの顔を思い浮かべ、声を聞き、「きっとあの人ならこう言うな」と考えて、それに従うようになっていくのだと思う。
オトナの階段はまだまだ続く。