英語と集団行動

日本人の集団行動と、英語教育のこと。

少し前からふんわり考えてるんだけどさ。
日本人はクラスなどの集団に入れちゃうと学習効果が上がらないんじゃないかしら。
そして中でも英語は、うまくいかないんじゃないかしら。

誤解のないよう先回りしておくと、ここで言う「集団での学習」とはScaffolding とか協同学習とか、Learning Community とか、そっち系の相互作用の話じゃないよ。
クラスなどのまとまった「集団」の中で学習するという、見た目にすぐわかる形態のこと。

「察し」というテレパシーを使いこなし、「空気を読む」という魔球に普通に対応し、輸入品を片っ端からガラパゴス化していく特殊能力に恵まれた、辺境の民族。
就学以降、学校の色、クラスの色、グループの色、会社の色、部署の色、あなた色に積極的に染められることを推奨する民族。

それ自体が良い悪いは置いといて。
ていうか、良いところと悪いところがあるわけで。
で、この特性は英語学習と相性が良くないかもなぁ、とふんわり思うわけだよ。

だって、学習ってのはバラバラなもんだから。
あるものを見て、全員が同じように理解して、全員が同じ期間、同じように記憶しているなんてことはありえない。
そこへ、あの民族性だよ。
周りに誰もいなければ別だけど、隣に人がいるのに、その人のことをまったく気にせず行動するのは難しい。
クラスの雰囲気を乱すのは正しくない。
友達との和がなにより大事。
ならば、自分の理解やペースなど犠牲にしよう、わかったふり、覚えているふりをして、やり過ごそう。
そう思うのが当然でしょう。

なかでも、英語は最悪。
音の聞こえ方、文字への興味、文章や言語に対する感性はみんなバラバラ。
自分の気持ちや考えを表現するならなおさら。
母語/国語で作文を書かされたり、朗読するのだって、なるべくみんなと同じような出来になるように気をつけているのに、普段使う必要もない、慣れない外国語では、自分で自分の出来をコントロールするのが難しい。
万が一、ネイティブ発音なんかが出ちゃったらまずいから、できるだけカタカナ発音で棒読みを心がける。
英語ができる人には特別扱いされて孤独になるリスクがある。
それは絶対に避けなければならない。

なにしろ英語は“主要科目”なので、無難に高得点が取れる道を選ぶのが普通。
普通がいちばん。
テンションの高い先生やALTとは皆と同じくらいの距離を置き、教科書で習っていない表現は避け、模範解答で切り抜けられる部分は丸暗記、解答に幅があるものはなるべく個性を殺し、わからないところは笑ってごまかして、やり過ごそう。
そう思うのが当然でしょう。

大人向けの英会話教室も同じ。
新しいクラスでスタートした時点では、それでもまだ比較的それぞれの個性が出ているが、授業に慣れ、講師に慣れ、クラスの和ができてくるにつれ、徐々に生徒さん同士の遠慮のし合いというか、お互いに染まりあう行動が始まってしまう。

そういえば大人の学習者の中には、周囲に内緒でこっそり英語を勉強している人が多い。
これ、「他の人がいると学習が妨げられる」というカンが働いてるんじゃないのかな。
ちなみに、だから「ある日突然ペラペラ薬」みたいなのがよく売れるんだよね。

英語ゼロの状態でアメリカへ渡ってきた子が現地校に入るとあっという間に英語が上達するのには、Exposure とかImmersion とか、いわば“どっぷり系”の影響が大きい。
学校では英語ができなければ生きていけない。
英語の習得は子どもたちにとって文字通り死活問題。
そういう必死さが、学習を促進させているという面もある。

でも、こと日本人に関しては、それ以上に「周りのことを気にせず、学習に集中できる」という環境が、実は習得にかなり大きな影響を及ぼしてんじゃないか、とふんわり思うのさ。
一人ならリスクも取れるし、自由な表現もできる。
できることを隠したり、やめておいたりする必要もない。
集団行動によって抑圧されていた日本人の個人主義の本領が発揮されるのだ。

このことはNYCやバンクーバーなど、日本人の多い大都市で、その土地在住の日本人の英語力が伸びにくいこととも無関係ではないだろうと思う。

「ふんわり」を強調している理由は、これを科学的に立証するのは非常に困難だろうと思うから。
だって、どうやって測定するよ?
考えられるのは、たとえば、“ザ・辺境”の日本的な日本人をサンプルとして、日本人の中で学習する統制群と非日本人の中で学習する実験群に分けて対照研究。
でも“ザ・辺境”は定義しにくいよ?

さらに言語習得の特徴として、使う量が増えると習得が進んじゃうから、そこんとこをどうやって調整するかね。
長期的な学習効果や経過を比較するとおもしろいだろうけど、研究が長期になればなるほど、実験外で起きることへの対応が難しい。

でもまぁ、どこかの天才が、程よく折り合いをつけて、データを出してくれたりしないかなと、ふんわり思う。
言語教育研究も、マウスでできる時代が来るかもしれないし。

そんなわけで、私にできることは、「自宅からでも受けられるマンツーマンのコーチングは、やっぱり日本人の英語学習に適しているんだなぁ」としみじみ思うことぐらい。
完全なる瓢箪から駒ですけどね。

「英語と集団行動」への2件のフィードバック

  1. そういえば、学校で英語を読むときは、周囲に合わせるのがストレスだったなあと思い出しました。
    フツーに読むと、「お前の発音、変だ」 なんて言われる時代でしたからね。今はどうだか知りませんが。
    外資系勤務時代も、ついフツーに発音しちゃうと、なんだか突き刺さる空気を感じてましたよ。

  2. 何を「ヘン」と感じるか、またそれを本人に直接言うかどうかについては変化してきていると思いますが、根本的なところは変わっていないと思います。ただ、ということは、いったん英語ができることが“普通”になれば、ゴロッと事態が変わって“みんな”ができるようになってしまう可能性もなくはないわけです。それはそれでどうなの?と思いますが。いずれにせよ、50%に達するまでは厳しいです。

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