節目

「節目」って何?
軽い気持ちで調べだしたら、意外と手間がかかった。

「人生の節目」な話をしながら、ふと思った。
そういえば「節目」って何だろう。

「人生の」が付いている以上、これは比喩表現で、もともとの「節目」は「節」のある植物から来ているのだろう。
なんとなくイメージするのは竹だけど、合ってるのかな。

で、とりあえず辞書を引いてみる。

ふし-め【節目】
竹や木材の節のある所。

ほう。
竹限定じゃないのか。
じゃあ「節」ってなんだ。

ふし【節】
①竹・葦などの茎の、間をおいて隔てをなしている所。(以下略)

ふむ。
念のため、「木材の節目」から確認しておこう。
参考資料をつぎはぎして作った説明は以下のとおり。
木材における「節目」とは、枝の跡のこと。
節目のない木材は見た目に美しく、良質、高級とされており、そのような木材を作るために、枝を切り落とす作業を枝打ちという。(参照1 参照2 参照3

一発でバチッと説明してくれている辞書や用語辞典、専門サイトなどが見つからないということが新鮮な驚きだった。
当たり前すぎて誰も説明してないのかな。
ネット上にはもっと当たり前なことで、説明の焼き増しが延々とされている例がいくらでもあるのにね。

というか、ネット上の情報は「節目といえば人生の節目」と言わんばかりで、「人生じゃないほうの節目」について書いているものは非常に少ない。
「ところで節目って何だ?」と疑問に思う人も非常に少ないってことなんだろうね。

とりあえず、「木材の節目」はだいたいわかった。
おそらく「人生の節目」の元になっているのはこれじゃなくて、当初の予定どおり、「竹・葦」系のほうだろう。

というわけで、続いて「竹の節目」について確認する。

「竹 節」で検索すると、まず「節竹」の説明に当たった(参照)。

よ‐だけ【▽節竹】
節(ふし)のある竹。
よい竹、または若い竹、また単に竹の意などの説がある。(以下略)

ほぅ?
竹にも節がないのがあるってことかい?

と思ったけど、どうやらそういうことはなさそう。
竹にはタケノコのうちから約60の節があって(参照)、それぞれの節にある成長点が伸びるから、「畳んだ提灯を引き伸ばすように」(参照)竹は成長するのだそうだ。

節があることで、竹は折れにくくしなやかになる(参照)。
病原菌の侵入を阻止する力があるという説も見かけた(参照)。

こうして各々の「節目」を確認してみると、辞書の「竹や木材の節のある所。」って説明は雑だよね。
「竹の節目」と「木材の節目」は、ぜひ分けてもらいたい。

で。
て、ことは、だよ。
竹にはあらかじめプログラムされた成長点があって、最初は一塊の成長点がぴゃーっと縦に広がって、それにひっぱられるかたちで茎が伸びるというわけだ。
「節」は竹を伸ばすためにあり、「節目」はその証拠なのだ。

これに対し、「人生の節目」というのはどちらかというと、すでに人生という茎のあるところへ、区切りとして後から挿入された感じがある。
これは役割として「竹の節目」とはずいぶん違うということだ。
成長点である「竹の節目」を人生に置き換えると、それはむしろ修行(参照)のことを言っているような気がしてきた。
実際、竹によって節の数は異なるようだし。

こういう展開になると決まって、「本来はこれが正しいんです。誤用はけしからん」と言って取り締まりたがる人が現れるが、私はそっちには行かない。

「節目」が区切りの意味になるのは、おそらく、縦に伸びる植物における「節目」よりも、竹を切って、断面で見る「節目」のほうに馴染みがあるせいだろう。
この見方だと、節は上下を密閉するフタだもんね。
先に引いた辞書の「隔て」という表現も、こちらに近い。
この視点の違いは「竹に上下の節あり」という禅語の解釈にも表れているようだ。

もともとの禅語は「松無古今色 竹有上下節」。
松には歴然たる古今の差がありながらも、どれも等しくみどりを保ち、竹は節という上下の区別を歴然と見せつつ、その上下は1つの体を成すもので、存在としては平等だという(参照)。
しかし、この「竹有上下節」に「仕事は一つずつ」という解釈を与えている人もいて(参照)、現代日本で働く人たちには、そっちの方が響いたりするようだ(参照)。

ま、見方や解釈はどうあれ、私たちは竹を見て人生を振り返り、竹に教えを請うことが多いらしい。
いろんな意味で、竹は重宝ってことだね。

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