私たちに与えられる修行と、親子関係のこと。
私はよく「修行のカミサマ」という言い方をするが、人にはそれぞれ、越えるべき試練が与えられる。
ラクに越えられるものは試練ではないし、越えられないものは与えられないので、与えられるものは、ちょっと苦しい、一見したところ無理そうな、でもどうにかギリギリ越えられるぐらいの試練と決まっている。
内容もタイミングもいろいろだが、その時のその人にとって、ちょうどいいところを突いて試練は与えられる。
だからこそそれは、誰にとっても、常に、もれなく、最適な厳しさを備えた修行の機会となるのである。
越えるための力に個人差があるため、修行の量は平等ではない。
カミサマに力があると見込まれた人には“平均”より多めに修行が用意されている。
世の中は不公平なのである。
修行の量が一人ひとり違うのなら、当然、修行の多寡は家族間にも生じる。
親より子が、あるいは子より親が、多くの修行を与えられていることもあるわけだ。
子が親より多くの修行を積むことになっている場合は、親子は比較的健全な関係を築きやすいかもしれないと思う。
親は自分より多くの修行を背負う我が子を見て、心情的に辛い場面もあるかもしれないが、子がたくましく育っていく喜びを持つことができる。
また、親によっては自分の修行の少なさに気づきもせず、子に頼り、甘え、子の人生を乱そうとするかもしれないが、子が自分に与えられた修行の意味をしっかりと理解し、親より多い修行を受け入れる覚悟ができれば、子は親を許すことができる。
親が子より多くの修行を積むことになっている場合は、親子の関係はやや難しいかもしれないと思う。
親は自分の越えてきた試練を“標準”と見なし、相対的に少ない我が子の修行の量に不安や苛立ち、歯がゆさを覚えるかもしれない。
子は自分に与えられてもいない架空の修行内容を必死に訴えてくる親を理解することができない。
少量とはいえ、子は子なりの修行を積んでいるのだが、親はそれを認めることができない。
修行の量には個人差があり、世の中は不公平なのだ。
頭ではわかっていても、また他人なら受け入れられても、親子のような関係ではそれが難しいのかもしれない。
我が子の人生に修行が少ないことを認め、受け入れ、自分と比較せずに子の人生を尊重し、あきらめ、かつ期待と愛情を減らすことなく子を見守り続けることが、子より多くの修行を負う親の越えるべき試練なのである。
戦前、戦中、戦後というような時代区分や、情報化、高度化、深化、複雑化のような時代の変化もあるが、私は何かと個人に着目するクセがあるので、ある時代の人という集団を、前後の時代の人と比較して苦労が多いとか少ないとか言うことを好まない。
いつの時代も、親子も他人も、それぞれに違う修行の量をそれぞれに違う内容や場面で与えられ、それぞれに違う方法で越えているのだと思う。
私も大変、みんなも大変。
私もみんなも、修行の多い人も少ない人も、それぞれに頑張っている。
修行を怠る者には、別の修行が与えられる。
修行をこなす者にも、また別の修行が与えられる。
そういうふうにできている。