「自信」について、最近、考えていること。
私は自称「自信がない」のだが、それはどうやら皆の言う「自信」とは別のものらしい。
別のものだとすると、じゃあ何なのか。
というわけで、彼を知り己を知る的な意味で、しばらく皆の言う「自信」を観察してみた。
そして2つの結論と決意に到達した。
ざっくり言ってしまうと、自信のある人なんて、ほとんどいない。
時により、事柄により、自信のある場面ぐらいはあっても、年がら年中、どんな時も、何に対しても自信があるなんて人はきっといない。
「自信がある」と言う場合、多くは立場上のもので、そう言うより他にないとか、そう言った方が支援を得やすいとか、「『自信がある』と表明している姿を見せること」に意味があるもの。
スポーツ選手などが「絶対に勝ちます」みたいなことを言うのが典型。
経営者などもそう。
「『自信がある』と言ってみせること」によって応援をもらったり、味方を増やしたり、チームや組織の士気を高めたりするのが目的で、だとすると、そのパフォーマンスは彼らの仕事の一環、言わざるを得ないという面があるのだろう。
本当に自信があるかどうかはさておき、「『自信がある』と言う」という行為が大事なのだ。
似たようなものに、自分に暗示をかけるというのがある。
「『自信がある』と言う」ことにより、「自分は自信があるのだ」と思い込み、それによって不安を解消したり、結果を恐れず冒険に出たりすることができる。
ま、暗示が必要だとすると、本当のところは自信がないのだろう。
いずれにしても、「『自信がある』と言う行為」には、それをすることにより、結果が良くなる可能性を高める効果がありそうだ。
一方で、「『自信がない』と言う」のはどんな時だろうか。
「自信がある」と同様、これも裏腹で、本当のところは自信があるという場合もあるのかもしれないが、どうなんだろうね。
私が観察から得た感じだと、「自信がない」と言う人は、実はあまり「自信」について考えておらず、他のいろんな事情や感情を「自信」という言葉にふわっと載せているだけのような気がしている。
いろんな事情や感情とは、たとえば、「やりたくない」「失敗したら恥ずかしい」「バカにされたくない」あたり。
でもそれらをはっきり口にするのは憚られるので、「自信がない」にしておく。
それで見事免除となり、やらずに済むならラッキーだし、もしそれでもやらされることになった場合には、「『自信がない』のに、それでもやれということは、失敗しても、できなくても、仕方ないですよ」という保険がかけられ、責任から逃れることができる。
仮に実際に失敗したり、できなかった場合にも、「だから『自信がない』と言いましたよね?」「自信があればもっとうまくできたはず」などの自己弁護が可能になるので、プライドを保ちやすい。
そういうことに「自信がない」を使ってほしくないなぁと思うけど、まぁしょうがない。
…というように考えていくと、やっぱり私の言う「自信がない」は、一般的な「自信」の話ではないような気がますますしてくる。
私は自信はないけれど、だからと言って、やるべきことをやらずに済まそうとは思わない。
自信があってもなくても、私の言動に影響はない。
自信とは関係なく、自分の言動に伴う責任を常に感じている。
失敗は日々しているけど隠すつもりはないし、そこに弁護や同情を求めることはない。
やりたくないことは「やりたくない」と言える。
私は伏せておきたい何かの代わりに、「自信」を持ち出すことはない。
自信がないから「自信がない」と言っているのである。
でもそういうふうには受け取ってもらえない。
そういえば「本当に自信がない人は『自信がない』なんて言わない」と言われたこともある。
もう、訳がわからない。
そこで1つめの結論は、「『自信がない』と言う」のはやめた方がいいんじゃないか、ということ。
下手に「自信」という言葉を使うことで、意味の違いが生じ、余計な誤解を招いたり、私自身のフラストレーションにつながるのはよくない。
私の思う「自信」にふさわしい名前が見つかるまで、しばらく「自信がない」と言うのはやめよう。
そして2つめの結論は「『自信がある』と言う」のも、やってみてもいいかも、ということ。
立場的にも自己暗示的にも、「『自信がある』と言う」ことが必要だったり、有効だったりする場面は結構ある。
本当にはなくても、表向き「自信がある」と言うだけで事がうまく回るなら、時々は言ってみるのもいいかもしれない。
私が「『自信がある』と言う」をやることで、周りの人を安心させられるなら、やってみる価値はある。
「自信を持たせなくちゃ」とかいう見当違いの働きかけもなくなるだろう。
というわけで、「『自信がない』と言わない」&「たまに『自信がある』と言ってみる」の2つのキャンペーンを開始してみようと思う。
まずはお試しで。