数を稼ぐために本末転倒になること、について。
TED の字幕翻訳をやってみたいという人がいる。
やろうと思ったけどやり方がわからないので断念したという人もいる。
私はTED 教の信者じゃないし、営業型でもないので、「皆さん、やりましょう」と仕掛けるつもりはない。
でも、弱めの販売型ではあるので、やる気があるのに躓いて、がっかりしているような姿は見るに忍びない。
このあたりのモチベーションは英語教育にしろ、何にしろ、一貫性がある。
で、「じゃあ、字幕翻訳の勉強会でも作ろうか?」ということになった。
やるとなれば、テクニカルなことだけでも、アプリの使い方、手順、作業の流れ、メンバー間のコミュニケーションなど、知って役立つような項目はすぐに思いつく。
教室なら、私の画面をスクリーンに映し、受講生はそれを見ながら、個々に持ち込んだラップトップで操作して練習するのがいいだろう。
一部を選んで、参加者全員に個別で訳させ、共有してすり合わせれば、日本語訳のクオリティを感覚的に学ぶことができるし、校正の意味もわかる。
場所は大学の一室とか、どこかを借りればいい。
ところが、日本人の少ないアメリカの田舎では、この1点だけでは人が集まらない。
では英語学習への応用も加えようか。
それなら参加したいという人が増えそうだ。
日本語教育への応用も加えようか。
それだけかき集めれば、クラスとして成立するだろう。
が、はたと気づく。
数を集めるためにネタを広げて、何の意味があるのだ?
震災の支援活動をしていた時のことを思い出す。
アメリカの田舎に住む日本人は、日常的に日本人と会う機会が少なく、職場や家庭でも日本語を話さない環境にいる人が多い。
他の外国人のように、宗教やビジネスでつながりを作る民族ではないので、日本人たちは基本的にバラバラに生活している。
こうした環境下の日本人同士の集まりは、どうしても息抜きや憩いの場、同窓会的な色が濃くなる。
勉強やプロジェクトの推進を目的に集めても、それらは単なる名目、集まるための言い訳になってしまいやすい。
延々と楽しくおしゃべりして、肝心の案件はちっとも進まず、また集まる理由を作るために次回に持ち越しとなる。
支援活動の最初のうちは、癒しも活動の一つと思ってやり過ごしていたが、半年もすると、「何のための集まりか」と思うようになってしまった。
目的意識の高い人ほど離れていくようになった。
この地域で、日本人主導、日本人向けの活動を起こすのは難しい。
そこを打開して、この地域で日本人コミュニティを形成するほどの情熱は、私にはない。
“日米文化交流”的なイベントや、カタイこと抜きの食事会を楽しく催すぐらいにとどめておくのがよい。
そして原点に戻り、字幕翻訳の勉強会はオンラインでやるのが妥当だろうと思い直す。
バーチャルのコミュニティには、これから翻訳をやってみたい人も、始めてみたけど迷子になっている人も、デビュー作の途中で挫折した人もいる。
環境や方法については、ITや遠隔教育の専門家たちに相談すればどうにでもなるだろう。
数というものには魅力がある。
だから参加者数、売り上げ、支持率を上げることを追い求め、そのために犠牲を払うことを当然と考えるようになる。
しかし、そのために、本来の目的を見失い、自ら手かせ足かせを付けて、途方に暮れることにもなる。