教育と現状維持志向について。
私の周りには、現状維持を好む人が時々いる。
性別や年齢に偏りは感じないが、彼らには共通点がある。
日本人である、ということ。
私の知り合いの中に、現状維持を好む人の割合は低い。
私の知り合いにはアメリカ人を含む外国人が混じり、日本人にしても起業や経営、研究や開発に関わっていたり、海外と何らかの接触がある人がほとんどなので、現状維持志向が多数派にはなりにくいのだろう。
私が日本に住み、日本的な組織に属していたら、私の周りには、もっと多くの現状維持志向がいたのではないかと想像する。
私は絶対主義じゃないので、現状とは維持すべきなのかどうかも、現状維持を志向するのが悪いかどうかも知らない。
やり場のないフラストレーションを抱えているわけでもないので、現状は必ず打破されるべきかどうかも知らない。
ただ、昨今の日本人が感じている「閉塞感」らしきものに、個人の現状維持志向が関わっているような気はするので、それは何とかしたほうがいいんじゃないの、と思う。
たとえば現状維持を脱却したいと望むなら、対策としてまず考えられるのは教育なのかなと思う。
ただ、私は“教育教”の信者でもないので、教育さえ施せば世界中が平和になるとも思っていない。
それでも、現状維持志向の多くは現状の把握が不十分で、根拠のない楽観的な考え方から都合の良い解釈をし、未来の予測が甘く、近視眼的になっているので、その各項目で教育を施すと化ける可能性はあると思う。
「よくわかんないけど、ま、大丈夫なんじゃないの?」と言う人に、歴史や統計を見せ、本を読ませ、文章を書かせ、考えさせ、多角的な議論や異なる見解の中に放り込むと、「知らなかった。これではいけない」となることもなくはない、ということだ。
ただし、それでは効かないタイプの現状維持志向がいる。
教育レベルが高く、専門的な勉強を長年して、最新情報を押さえ、現状をよく把握した上で、「何もしない」と言う人たち。
具体的な根拠に基づく強い危機感があり、わずかにでも情はありそうなのに、「だからと言って、別にどうにかしようとは思わない」「情熱がある人も、中にはいるけど、自分はそうじゃない」と言う。
訳知り顔で「やったところで、潰されるだけ」とも言う。
勉強を重ね、よく知ったけど、見て見ぬふりを決め込む。
だったら、それは何のための勉強なのか、と思う。
教育に失望しそうになる。
確かに、現状を維持することが比較的好まれる分野も、そういうCulture (風土)を持った組織もあるのだろうと思う。
対照的に、私の所属する教育という分野の研究者には、革新を好む人が多い。
そりゃそうだよね。
教育を施す以上、子どもにしろ、大人にしろ、その「ビフォー」と「アフター」で何の変化も起きないということは通常、考えられない。
教育の研究というものは、その変化をいかに効率よく起こすか、そこんところを進歩させていくのが目的であって、現状維持志向ではあり得ないだろうと思う。
そして私が高等教育を受けたのは、アメリカという、三度のメシより変革が好きな国である。
まして、私の専門は、日本人の英語教育という、決して現状維持でいいはずがないところにある。
もし私が現状維持志向なら、わざわざ海まで渡って、こんなにしんどいことをしぶしぶやりに来なくて済んだのだ。
そういうバイアスまみれの立場であることは承知の上で、「それにしても」と思う。
教育を、それも専門的な教育を、人より長く受けて、その結果、現状維持志向なんてことが、なぜ起きるのだろうか。
あの人たちのような強靭な現状維持志向の前に、教育は無力なのだろうか。
あーあ。
バカバカしい。
…待てよ。
分野的な傾向とは別に、事実として、私は教育を専門に勉強してきた。
そこで学んだ中で、「現状維持志向を育てる」という目標を見たことは一度もない。
教育が目指すのは、学習者の成長である。
問題意識を持ち、行動する人間の育成である。
現状を正しく把握し、深く考え、議論をし、広く情報を集め、異なる意見を統合し、多角的に検討して、何らかの生産的なアイディアにたどり着くための技術や道具を学習者に与えるのが、教育の役目である。
だとすると、あの、道具や技術を持ちながらも、それを「使わない」という選択をする人たちが通ってきたアレは、教育ではないのではないか。
学んだことが職業に直結せず、社会で生かすチャンスもないアレは、教育とは言えないのではないか。
物知りで、理屈っぽい文句は言えても、自分では何もしない。
そういう人を量産しているアレは、教育とは別のものなのではないか。
「社会に出たくない」とか「働きたくない」とかいう動機と、「経営」という目的が合致し、“お客様”として集められ、引き止められ、ダラダラ延長して、結果“高学歴”を増やしているアレは、きっと、教育ではないのだ。
時間つぶしと、大義名分と、目先のカネ儲けにはつながっても、国力にも個人の幸福にもつながらないアレは、教育ではない。
「抜本的、抜本的」と唱えるばかりで、いつまで経っても本気で変える気なんてないアレは、教育ではないのだ。
そう思ったら、少しホッとした。
アレにさえ関わらないように気をつけていれば、私はまだ教育をやっていけそうな気がする。
いちおう書き添えておくが、本当の現状維持というのは常に変革を伴うものである。
変わらないためには、変えていかなくてはならないのだ。
「変えない」という選択肢は、変えることができる人のためにある。
「変革」って、そんなに大掛かりなことじゃない。
日常生活の中にだって、変革はいくらでもある。
タオル掛けの位置を変えるとか、ファイルの仕方を変えるとか、そういうちょっとした工夫を怠らないこと。
「以前はこれでよかったけど、ちょっと不便になってきたな」ということを見つけて、「じゃあ、どうするとよくなるかな」と考えて、「こうしてみよう」と動かすだけのこと。
それで、「こうしたいけど、できないな」ということが出てきたら、「できないのは何故だろう」と研究し、「じゃあ、新しく作ってみよう」と開発するだけのこと。
一人でできなければ、誰かを誘って、一緒にやればいい。
周りが現状維持志向だらけで、誘う相手が見つからないなら、そんなところには早く見切りをつけて、環境を変えたほうがいい。
どこへ行ったらいいのか、自分で考えて、動く。
その時点でもう新しい何かが始まっている。
「いつか」「そのうち」「とりあえず」。
「やろうと思ったんだけど」「わかっちゃいるんだけど」。
そんな悠長なこと言ってる場合じゃないよ。