私の言うコレと、みんなの言うソレは、なんだか違うなぁということが多い。
使っている語は同じでも、その意味するところがズレているようなのだ。
相手に伝わらないことについては、その原因は多種多様だし、もれなく複数の原因が複雑に絡み合っているので、根気よく個別に対応するよりないだろうと思うけど、私自身が「みんなの意味するところ」に近づくことについては、もうちょっとなんとかなるんじゃないかと思う。
その最たるものは、『自信』。
カウンセリング、家族や友人たちとの会話を通じて、私の言う『自信』と、みんなの『自信』はどうやら別のものらしいということはわかった。
そして、みんなの言う『自信』については少なくとも部分的に、英語の”Confidence”についてはそれより多めに、私は持っているような気がしてきた。
だとすると、では、私が「ない」と感じているコレは、なんて名前なんだ?
その周辺にある『心配』とか『恥ずかしい』とかも、みんなの意味と私の意味の間には距離があるような気がする。
普通は母語で自分のDefinitions を疑うということはあまりしないのだと思う。
でも私は、それこそ母語にも“自信”がないので、“心配”になって辞書を引いたり、人に聞いたりする。
そういうことがちっとも“恥ずかしく”ない。
意味を特定しないまま長期間放置できるのは、おそらくは急いで安心しようという気がないせいだろう。
自己流の軽はずみなDefinition でいいかげんに安心するぐらいなら、ちゃんと自分が納得できるDefinition に到達するまでモヤモヤ抱えているほうを選ぶ。
その選択をするのは少数派だということも知っているが、これはもう、好みの問題なので仕方がない。
私はこれについて前科がある。
子どもがよく使うはずの『楽しい』という語を私は成人するまで知らなかった。
子どもの頃、周りの子が「楽しい」と言う場面に出くわしたこともあったのではないかと思うのだが、記憶がない。
つまり聞き逃していた可能性が高い。
そして自分が「楽しい」と感じた記憶もない。
そういう感想を持ったことはあったはずだと思うのだが、『楽しい』という語を知らなかったので、その気持ちには名前がついていなかった。
あるとき、一日一緒に過ごした友人を車で送る途中、彼女が「楽しかったねー」と言った。
もう自分の車を運転する年齢だったので、おそらく私は当時25歳ぐらいだったと思うが、それで初めて、「あぁ、この経験の後のこの感覚のことを、みんなは『楽しい』と言うのか」と理解した。
以来、遅ればせながらおずおずと『楽しい』を使うように心がけ、今では(たぶん)みんなと同じ意味で『楽しい』が使えるようになった(と思えるようになった)。
なのでこれは前科であるとともに成功体験でもある。
『自信』などの、今の私にとって不安定な語も、いつかみんなと同じ意味で使えるようになる日が来ると期待している。
(というタイプの『マイナス思考』。)