最先端

現役とか、最先端とか、そのへんのこと。

久しぶりにNさんとランチ。
Nさんは、音楽の世界で有名な方で、たぶん本来なら出会うだけでもすごいことなんだけど、どういうわけか、私はどっぷりとお世話になっていて、イベントやランチやドライブなどに誘ってもらう。
で、二人でおしゃべりしだすと止まらない。

新しいレストランの“開拓”を自分に課しているNさんは、今回も数ある「行ったことはないけどよさそう」なお店の情報から郊外のレストランをチョイス。
Nさんのさすがの嗅覚により、駐車場も外観も内装も、味も食器もサービスも、とってもいい感じ。
食後に延々おしゃべりしていてもプレッシャーをかけてこなかった。
これも最後にダメ押し的に加点され、合格。

そのおしゃべりの中で、Nさんの音楽家としてのプロフェッショナリズムに触れた。
数ヶ月前、ある音楽家とコンサートをやったときのこと。

若い彼が音楽活動を始めた頃、Nさんはすでに活動を休止していた。
コンサート会場であるアメリカの地方の大学の音楽学部の講師であるということ以外、彼はNさんのことを何も知らなかった。

Nさんは謙虚な方なのでそうは言わなかったが、たぶん演奏してみて、彼は気づいたのだと思う。
それから彼に聞かれるままに、経歴や過去の演奏歴を話し、「なぜ20年もブランクを作ったんですか。また演らないんですか?一緒にやりましょうよ」と言われたらしい。

私も同じ質問を重ねてみる。
また演らないんですか?

Nさんは「自分ひとりで演るのはいいけど、協演は無理」と言う。
ふむ?
「自分だけ」と「誰かと一緒に」は、何がどう違うんですか?
Nさんはいつもの口調で迷いもせずにこう答えた。

自分ひとりで演奏することになったら、もちろん準備は要るけれど、おそらく1年ぐらいあれば仕上げられると思う。
自分の色、自分の音を出せばいいだけだから。
何でもアリ、どんな出来だろうと、「これが私です」と言えばいい。
勢いのあった若い頃のような演奏はできないけど、そのぶん今はもっと長い時間をかけて練習しているし、もっとよく音楽を理解しているから、深みも出せると思う。

でも、たとえば今回の彼のような人と一緒に演奏するとなったら、彼が持つ最先端の技術に、もう自分はついていくことができない。
「あ、こう行きたいんだな」ということが頭ではわかっても、どうしても感覚的に遅れてしまう。
テンポとか、そういうことじゃなくて、反射みたいなものが。
演奏から離れていた年月の間に、人として培ったものはあるので、それを個人として表現に上乗せすることはできても、最先端を追いかけることをやめてしまった者が、その間ずっと勉強を積んできた人の横に、急に並ぶことはできないのよ。

ははぁ。
なるほど。
現役ならではの技術や瞬発力か。

次元が違うのは百も承知で、咀嚼と消化のために、私の理解できるところへ下ろして考えてみる。

たとえば英語なら、今日普通に使われている英語から離れないで、見たり聞いたり使ったりを続けること。
使われなくなった言葉や新しい表現を敏感に感知し続けること。
日本人向けの教育なら、学習者の動向、日本語や日本文化の変化、ニュースや流行、教育政策などをキャッチし続けること。
研究なら、最新のジャーナルや学術論文を読み、学会発表を聞き、最先端のテクノロジーや研究手法、業界の傾向を掴み続けること。

今の私は、Nさんが出会った彼と同じく、選択の余地もなく、好むと好まざるとに関わらず、ただ追い立てられるままに必死で“最先端”と並走しているが、ひょっとしたらこれは、ものすごくありがたいことなのかもしれない。

離れた人ならではの円熟味というのもあるのでは?と聞いてみた。
Nさんの答えは
「最先端を続けながら円熟味を増してる人はいっぱいいるわよ」。
うーむ。
その両立はとてもとても難しそうだ。

私はどうなっていくだろうか。
最先端から離れずに、このままずーっと行くだろうか。
どこかで現役を退き、ときどき最先端を垣間見ては、自分との距離を感じるようになるのだろうか。
そのとき、私はNさんのようにきっぱりとある種の負けを認め、最先端を追い続ける人を称えると同時に、ある種の自信を迷わず口にすることができるだろうか。

少なくとも、保身のために最先端を寄せつけず、現実から目を背け、貯金が底をついていることをひた隠しにして、過去の栄光にすがるようなことだけはしたくないと思う。

オトナの階段はまだまだ続く。

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