『日本人なら必ず誤訳する英文』を読んだ。
書評でもさんざん指摘されているが、タイトルの挑発的なこと。
「“必ず”って、必ずなんだな?」と言いたくなるよね。
どこかには「英語自慢の鼻をへし折る」とも書いてあったらしい。
出版物のタイトルというものは、大人の事情が絡む。
この本もそうなのだろうと思う。
著者は親切で教育熱心な人だから。
この本を「日本人」や「英語」という切り口で読むのは不適切だろう。
これは、母語とも母国文化とも縁の遠い言語間での翻訳という特殊な作業をしたい人向けの適性検査なのだと思う。
著者はその作業のプロである英→日の翻訳者を養成する立場から、翻訳者の卵たちを叱咤激励し、必要な技術を伝授しようとしている。
適性という意味で、以下の3つが著者のポイントだろう。
同じことが繰り返し強調されている。
1.「わかったつもり」にならないこと
「英文の構造を理解せず、『だいたいの雰囲気』だけで訳そうとする」(p.20)
「行きあたりばったりのいいかげんな読み方を放置しているかぎり、この種の英文の誤読は果てしなく繰り返される」(p.40)
「[ごく基本的なことの確認をせずに]速読ばかりしていても、せいぜい表面的なコミュニケーション能力が身につくばかり」(p.84)
「[訳出の際に鍵となる語を]平気で無視する、というより、これが目に留まらない人があまりにも多い」(p.196)
2. 言語的“感度”が高いこと
「『予想→確認』または『予想→修正』」
「[最低限の文法的知識]だけでは不十分で、ときにはこの思考のプロセスをたどる必要がある」(p.22)
「誤読→違和感→修正」
「なんとなく変だな、という感じが残ったら、もう一度最初から読み直す気になるはず」(p.135)
「[知っている語に違和感を覚えて]辞書を引くだけの感度のよさ(と、もちろん辛抱強さ)も実力のうち」(p.198)
3. 母語の能力が高いこと
「訳せないのは読めていないから」(p.84)
「日本語の運用力と英語の読解力は、99パーセントの生徒について完璧に比例する」(p.187)
日本人で英語がちょっと使えるからって、翻訳ができるとは限らない。
翻訳ってそんなに甘いもんじゃないよ、と言いたいのだろう。
私は翻訳のプロではないが、最近、そう言いたくなる場面があったので、溜飲が下がった。
翻訳関連で、日本語が下手で、言葉づかいが雑で、辞書を引かずに失敗した経験をきっかけに、もっとラクに翻訳する方法を探している、という人に出会ったのだ。
この本を読んで、彼には翻訳の適性がないと改めて確信した。
英語学習という観点では、このくらいの慎重さをもって言語に臨んでもらいたい気持ちは著者同様、私にもあるので、学習者の中で、ある程度翻訳の適性を持ち合わせているタイプの人には薦めてもいいかなと思う。
ただ、私は大事な学習者たちの“鼻をへし折る”ようなことには反対だし、日本人学習者の多くは、哀しいかな“表面的なコミュニケーション”にも至っていない状態なので、せっかく読んでも伝わる部分が少ないだろう。
個人的に目からウロコが落ちたのは、「左から右へ」(p.20、p.36) というごく当たり前のことが、多くの日本人にはできていない、という点。
ほほー。
翻訳でも会話でも、流れてきた順に英語を受け止められず、前後をこねくり回してワケのわからないことになる人が多いのはそのせいだったのか。
文法をパズルのようにして順序を入れ換えるなど、視覚的に見せる教え方に一定の効果があるのは間違いないが、日本語母語話者の英語学習においては負の影響が大きいのかもしれない。
学習者の発話や理解を観察する上で、今後注目していきたい。
越前敏弥.(2009). 越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文:あなたはこれをどう訳しますか?
ディスカヴァー・トゥエンティワン.