「Conscience(良心)」について学んだ上で、「Empathy(共感、感情移入、自己移入)」について考える。
『良心をもたない人たち』の感想にtakさんがコメントをつけてくださった(参照)。
なるほど、この流れはEmpathy について考え直すのに良い機会かもしれない。
Empathy という語で、数年前に見たTED Talk を思い出した。
Sam Richards: A radical experiment in empathy (参照)
このトークを聞いた当時の私の焦点はもっぱら「アメリカ」だった。
コミュニケーションというのは社会学の一派であるので、私は社会学の研究者に馴染みがある。
が、それにしても。
アメリカにはこんなことをやるアメリカ人がいるんだ、と思った。
これは日本流の自虐とは別のもの。
私は完全に講演者Sam Richards のShoes に入って、「ここまで言っちゃって大丈夫かな」とドキドキしていた。
さらにこのトークを聞く一般アメリカ人のShoes にも入り、不快を覚えたりもしてみた。
仕掛けているのがアメリカ人だからいいようなものの、外国人がこれをやったら大変なことになるだろう。
こういう場を作り、広く公開し、議論を許しているのもまた、アメリカなのだ。
すごいとこへ来ちゃったなぁ、と思った。
そのときには気づかなかったが、今はわかる。
私はEmpathy を感じやすい。
どこかに平均があるなら、たぶん平均よりずっと早い段階でEmpathy を感じ始め、平均よりずっと大きなEmpathy を、平均より長く保っているだろう。
“憑依”と表現することもできる(参照)。
「良心が欠けている人がいる」ということを知った今、改めて”Empathy”のトークを見る。
ははぁ。
彼の知る限り、“普通”の人というものは、このくらいの実験を経てようやくEmpathy を体感するのだな。
これだけのことをしても、良心を持たない人には響かない。
“普通”の人はこれを見て、Empathy を覚える。
ただし、「なるほど、わかったぞ!」とその場では思っても、しばらくすると忘れてしまう。
“平均”というのはそのあたりにあるのだろう。
私がEmpathy を感じやすいことは、私の強みであり、弱みでもある。
そして今回のことがあるまで、私は自分のEmpathy レベルが平均的ではないことを知らなかった。
Empathy を感じにくい人や、Empathy を丸ごと理解できない人がこの世にいることを想像できていなかった。
Conscience の欠けている人には近づかないこと。
ではEmpathy が欠けている人にはどう対応すべきだろうか。
これも近づかないでおくのが良いだろうか。
それとも、Empathy を持たない人のShoes に入って、そのPerspective を理解したうえで、身の振り方を考えたほうが良いのだろうか。
Sam Richards のように、教育を試みるのが良いのだろうか。
暫定的な回答としては、「すべてはConscience があるかどうかによる」かな。
うん。
とても大事なことを学んだ気がする。
当ブログで、5月12〜13日の 2回にわたって、empathy と conscience について書いてみました。臨床心理学と仏教哲学をリンクさせて、サイコパスと一闡堤を対象するという手法なので、あまり一般的ではないかもしれませんし、この問題に関しては、まだ入り口の部分でうろうろしているだけという気もしています。
いずれにしても、よい刺激を与えていただき、ありがとうございます。
なるほど。確かに機能不全という考え方もできますね。隣人になってしまったら、しっかり自己防衛しつつ、相手の救済を願うというのが理想的なのでしょう。
ただ、私のように“放っとけない病”の人は、「世の中には良心がない人もいて、お釈迦さまでも除外したんだよ!」と強く言い聞かせておかないと、脇が甘くなってしまいそうです。