英語とコミュニケーション

恥を忍んで、今さらながら、『英語』と『コミュニケーション』について。

『英語』と『コミュニケーション』という二語を並べることは、いまやベタ中のベタで、恥ずかしくなっちゃう。
この恥ずかしさ、何に似てるかなと考えたら、ふと発言したことが、期せずしてダジャレになってしまっていたときの恥ずかしさだった。
「あ、いや、違うよ。そうじゃなくて」と弁解したくなる。

『英語』と『コミュニケーション』はあっちでもこっちでもセットで販売されている。
大学の学部名にもなっているし、本や番組のタイトル、商品名にもなっている。
政治家も教育者も保護者も学習者も、みーんな“英語とコミュニケーション”を語っている。

だから私がこの二語をコーチングセッションで持ち出すと、受講生にニヤッとされることがある。
いや、実際にはされないけど、されているような気がする。
「あぁ、あれね」という反応と同時に、ダジャレの時のように「言っちゃったね?」とイジられそうな気がする。
それで私は慌てて弁解する。
「あ、いや、違うよ。そうじゃなくて」。

日本の英語教育に“コミュニケーション”が混入されて、いつの間にか英語は“コミュニケーション”付きで売るのが主流になった。
“コミュニケーション”=とにかくしゃべること、と思われているフシもあり、英語は机の上の勉強から脱却して、楽しく、聞いたり話したりするうちに、自然と身につけるのが良いとされるようになった。
この斬新でカッコイイ方法は、硬くてマジメで重いのが嫌われ、柔らかく優しく軽いのが好まれ、ラクして儲けたい時代にピッタリ。
爆発的な人気を得た。
そうやってお気楽なことをやってみたら、当然の事ながら、基礎体力とも背骨とも言える文法や語彙が衰え、ついでに母語の能力も衰え、ますます英語ができなくなりそうな気配がしてきた。
それで揺れ戻しが起き、「やっぱり読み書きだ」「文法だ」という声が上がり、「でも、じゃあコミュニケーションはどうする?」みたいなことになっている。

こんがらがってるねぇ。
大変だねぇ。

私は英語教育を教育学科で、コミュニケーションをコミュニケーション学科で学んだせいもあり、英語教育にコミュニケーションを混入することはそう簡単ではないはずだと思っている。
教育学科にコミュニケーションを理解している人は少ないし、コミュニケーション学科に言語教育を理解している人はもっと少ない。
ここ数年、研究を通じてこの2分野の融合を試みているが、やっぱり簡単ではないと痛感するばかりだ。

それを日本の英語教育が本当に実現しているのなら、私は個人的にノーベル賞をあげたいぐらいの大発明だと思うのだが、残念ながらそうはなっていない。
道は長く、険しいのである。

私がコーチングセッションで行う説明は、ざっと以下のとおり。
まずは「読み書き=“英語”、聞く話す=“コミュニケーション”」という、一般によくある誤解について。
そして、『英語』と『コミュニケーション』を分類し直す。

「ペラペラになる」「聞き取る」「覚える」など、従来の英語教育が目指してきた単身のSpeaker としての能力に、『英語』というラベルを付ける。
学習者が現在使っている英語そのものの観察、文法の確認、ボキャブラリーの学習、発音修正などはすべてここに含まれる。
書き言葉(読み書き)と話し言葉(聞く話す)の区別はしない。

『英語』の学習を通じて身につけるのは、個人プレーのための能力。
学習者が『英語』の能力を高めることは、英語を使用する上で、とても重要である。
発音や文法を妥当なレベルに整え、語彙を豊富にし、練習を積んで使える状態にしておく、つまり『英語』を自在に操れるようにしておく。
これで、自分の言いたいことは相手に伝わりやすくなる。

そして、『コミュニケーション』を紹介する。
言語を使うことを、他人との共同作業と捉え、たとえば会話なら、複数の人間が共通のゴールへ向かって一緒に作り上げるものだと考える。
会話のParticipant としての能力に、『コミュニケーション』のラベルを付ける。
それはたとえば、「相づちを打つ」「聞き返す」「賛成・不賛成を示す」などの表現の仕方、その間やタイミング、トーンや表情による変化、会話全体の流れ、速度などの動きを含む。

学習者がどんなに個人の『英語』の能力を高め、難しい語や複雑な文法を駆使してペラペラしゃべることができても、それだけでは自分の言いたいことは相手に伝わらない。
相手の反応を見ながら、押したり引いたりして、相手と一緒に進めていくという意識を持って言語を使ってほしい。
『コミュニケーション』の学習を通じて身につけるのは、チームプレイのための能力。

『英語』の学習は、いちおうの完成形があるので、マスターすることが可能。
母語話者であれば通常子どものうちにできあがる、あの範疇の話。
テクノロジーの発達により、この部分はどんどん機械に任せられるようになり、究極的には『英語』を学習する必要は減っていく、というのが私の考え。
『ほんやくコンニャク』(参照)があれば、『英語』は誰にでもマスターでき、英語教育は『英語』を教えなくてもよくなる。

一方、『コミュニケーション』の学習は、相手や内容、場面や緊張度、文化や言語の違いによって、求められるスキルが異なり、常に変化するので、完成形というものはない、と私は考える。
会話であれば、家族団欒で話すのと、重要な取引の交渉をするのに違いがあるのは、母語の場合を考えてもわかる。
日本人が英語を使う場合であれば、韓国人など、ノンネイティブを相手に自己紹介するのと、アメリカ人など、ネイティブを相手にケンカするのでは、求められる『コミュニケーション』のスキルが異なる。

『コミュニケーション』の学習に終わりはない。
ただ、成人の第二言語学習者には朗報がある。

たとえば日本人の英語学習者の場合、すでに日本語を使って培ってきたコミュニケーション能力が英語を使う場合にも利用できる。
文化による違いなど、コミュニケーション上の作法のようなものを新たに体得する場合にも、母語のコミュニケーション能力をベースに、違いだけを学習すれば、ゼロから覚えるよりずっと効率が良い。

私は、成人の英語学習者というものは、学習者がすでに持っている『コミュニケーション』能力が『英語』能力の不足によって妨害されている状態の人と考えている。
せっかくのコミュニケーション能力も、文法や発音が不安定だったり、語彙が乏しいと発揮しきれない。
だから私の提供するコーチングでは、学習の母体は『コミュニケーション』であり、もっとも重要なのは場面等に応じて、どんなコミュニケーションが適切か、その判断をして、パフォーマンスを上げていくことであって、『英語』はその次と位置づけている。
『英語』は学習者が持つコミュニケーション能力を具体化するための媒体の一つとして、『コミュニケーション』の邪魔にならない程度に機能しさえすればよい。

…「ざっと」でも、じゅうぶん長いよね。
こういうようなことを、数ヶ月かけてちょっとずつお伝えしている。
この草の根運動が、いつかどこかで役に立つことを願って。

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