日本人のおかあさんたちに、ぜひともお願いしたいこと。
子どもから、考えるチャンスを奪わないでください。
先日、飛行機に乗ったときのこと。
近くの席に、1歳ぐらいの男の子と幼稚園ぐらいの女の子の、子ども二人を連れた白人の一家が座っていた。
飲み物のサービスが来たとき、最初はおかあさんが、自分と、子ども二人分の飲み物を頼んでいた。
が、二回目のサービスが来たとき、女の子は自分で「ジンジャーエールください」と注文した。
乗務員が「氷は入れる?」と聞くと、女の子はおかあさんの方をチラッと見た。
おかあさんは表情だけで「自分で答えなさい」と指示を出し、女の子は乗務員に氷を入れてほしい旨を伝えた。
アメリカでは珍しくない光景。
でも、このおかあさんと子どもが日本人だったら、私は珍しいと感じたんじゃないかと思う。
日本人のおかあさんと子どもが一緒にいる場で、誰かが子どもに質問をしたとき、子どもが答える前に、おかあさんが答えてしまうことが多い。
教育を生業としている人で、普段はよその子に対して考えさせる工夫をしているようなプロでさえ、我が子の横にいるおかあさんという立場になると、子どもが答えるチャンスを横取りしてしまう。
おかあさんたちはほとんど無意識でやっていると思う。
私はずいぶん前からこのことが非常に気になっている。
現代日本社会には、相手が年寄りであれ、子どもであれ、けが人であれ、荷物の多い人であれ、モタモタしていると、舌打ちしてくるような人がいる。
だから嫌な目に遭わないためにも、周りの迷惑にならないためにも、モタモタする子どもの代わりにおかあさんが素早く対応して、その場をやりすごしたくなる、というような事情もあるだろう。
でも実際のところは、おかあさん自身が待てないのだ。
子どもが質問されて、「えーっとねぇ…」と言ったりするのをにっこり見つめている暇がないのだ。
誰かが子どもに質問する。
質問者と子どもの間におかあさんが入ってきて、質問者に向かって“正解”を言う。
子どもはそのおかあさんの様子を黙って見ている。
それからおかあさんは子どもの方に向きなおして、「そうよね?」と言う。
子どもはうなづく。
そういうやりとりに慣れた子どもは、質問を受けると同時におかあさんの顔を見るようになる。
おかあさんは、子どもに求められたという名目で、堂々と、迷いなく、子どもの代わりに答える。
「私が言ってやらないと」という使命感のような、責任感のような、自己満足のようなやりがいを感じて、代わりに答えることがやめられなくなる。
子どもは黙って、おかあさんが“正解”を出す様子を見るだけ。
仕事があるとすれば、最後にうなづくことぐらい。
日々の生活の中でそんなことをしておいて、「自分の頭で考えられる子どもになってほしい」なんて、それは矛盾じゃないかしら。
もちろん、急がなくちゃならないときは、おかあさんが子どもを抱き上げて走ればいいけど、いつもいつも抱っこして、運動や練習の機会を与えないでおいて、「足腰が弱い。なかなか一人で歩けるようにならない」と言うのは無茶苦茶でしょう?
自分で考え、意見を述べ、反応を見て、また考える。
自分や他人の個性を尊重する。
自分と違う考え方を受け入れる。
もし、そういう子に育ってほしいなら、子どもの周りにいる人は、特におかあさんは、子どもにたっぷりと考える機会を与えなくてはいけない。
考えるのを邪魔したり、機会を奪うなんてありえない。
日常のちょっとしたことほど、貴重なチャンス。
まどろっこしくても、見てられなくても、心配でも、自分が頼られているという満足感を得たくても、“子どものことをわかっている私”を確認したくても、グッと堪えて、子どもがおかあさん以外の他人や社会と触れる様子を、そっと見守ってあげてほしい。
子どもはちゃんとやります。
おかあさんが思っている以上に、がんばります。
だから、おかあさんは少し我慢してください。
もっと子どもを信頼して、応援してあげてください。
子どもがおかあさんとは別の人生を歩み、いずれ親を越えていくことを、許してあげてください。
親がいなくなっても生きていける、強い子になるために、一つでも多くの練習を積ませてあげてください。
切なくても、寂しくても、一つでも多く、子離れの練習を積んでください。
お願いします。