Responsibility

勝手に「私がやんなきゃ」と背負いこんでしまうことについて。

コミュニケーション修士時代のクラスメート、韓国人のYとランチ。
お手製のビビンパをいただきながら、近況報告。

卒論のゼミを一緒にとり、2010年に修士を卒業したあと、彼女はそのままコミュニケーションでPhDに進んだ。
私は教育へ戻った。
彼女は統計の人で私は個別事象の人。
そんな感じで専門は近いような遠いようなところだが、お互い、人間に対する興味が強いことは間違いない。

私の話を聞きながら、Yは「わかる、すっごくわかる」と大きくうなづき、「実は私もさぁ…」と、似たような件に巻き込まれた経験を話してくれた。

そして、「私が招いちゃった部分はあるんだよね。子どもの頃から、たとえばクラスに友達のいない子がいると放っておけないタイプだったから」。

あぁぁぁぁ。
そうか、そういうことか。

幼稚園のかけっこで、全員出走するのを見届けてからでないと、自分はスタートを切れなかった。
水泳教室が終わって、いつも出てくるのが最後だったのは、着替えの遅い子を待って、一緒に出てくるせいだった。
これらは母から聞いた話。

小中学校では、転入してきた子に話しかけ、遊びに誘った。
不良と呼ばれている子とも仲良くしていた。
高校や大学はそんな場面はなかったけど、職場では孤立している人を見つけては、お昼を一緒に食べたりすることがあった。

周りには「あの子と話すのやめなよ」と言う人もいた。
でもそんなのは気にならなかった。
皆がそんなふうに言うならなおさら、「私は離れないぞ」と思ってしまうのだ。

「そう、なぜか『Responsible (やんなきゃ)』って思っちゃうんだよね」とY。

それに、彼らは最初こそ警戒しているけど、ある時ふぁっと心を開く瞬間があって、実はいいヤツで、おもしろい話をしてくれるのだ。
そういう成功体験が、時に災いするのかもしれない。
「全人類を救おう」なんて滅相もないけど、どこかにちょっとそういう驕りのようなものがあるのかもしれない。

長い間孤立を続けている大人には、複雑な事情がある。
警戒心は非常に高い位置でキープされているし、他を排除する経験をじゅうぶん積んでいるから、一筋縄ではいかない。
自分の築いた牙城を脅かす者は、目的の如何に関わらず、敵と見なす。

「寂しいでしょう」と同情を向けること、「わかるよ」と理解を示すこと、「こっちへおいで」と誘うこと、そのすべては彼らにとって脅威であり、攻撃なのだ。
だから反撃するのだ。

Yと私は自分たちで導いた結論に深く納得してしまった。
でも、では今後は放っておくことができるかというと、それも難しい。
火傷を負うような経験を経て、さすがに「あ、これはヤバイ」というのはわかるようになってきたし、「これ以上は関わらないようにしよう」と努めはするけど。

「放っておくなんて、やっぱりできないよね」
「あのResponsibilityは、何なんだろうね」
答えは出ないまま。

ふー。

「だってさ」とYが言う。
「6年前、私が初めてのアメリカの大学院の授業で、不安で緊張して怖くてしょうがなかったときに、話しかけてきてくれたのはemi なんだよ。
あれでどれだけ助かったか。
それが始まりで私は修士を無事卒業して博士まで進んで、私たちは今日まで友達でいるんだから。
やっぱりやめるべきではないと思うよ。」

うーむ。

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