たまたま流れ着いた“名言”から、「理解」について考える。
There are some people
who could hear you
speak a thousand
words and still not
understand you.
And there are others
who will understand
without you even
speaking a word.
(あなたが千の言葉を届けても
あなたを理解してくれない人がいる。
あなたが一言も発せずとも
あなたを理解してくれる人がいる。)
本当にそうだよね。
じゃあ言葉って何だろうと思ったりする。
しかし一方で、この“名言”の前半部分には、微妙なところがある。
「理解」に過度の期待をかけすぎて、困ったことになってる人がいるから。
この「理解」というやつには、ちょっと危ういところがあるから。
相手に口を挟む余地を与えないほど、矢継ぎ早にたくさんの言葉を投げつけて、「あなたは私をちっとも理解してくれない!」と相手を責める人がいる。
たぶん「あなた」は「私」が思うよりずっと「私」のことを「理解」しているのだと思う。
そうやってドクドクあふれ出る言葉を次々にぶつける行為を材料にして、「あなた」は「私」についての「理解」をとっくに作り上げて、持っている。
ただ、その「理解」は、「私」が「あなた」に持ってほしいと望む「理解」とは
食い違っているかもしれないし、「あなた」の「理解」は「私」の望む方法で「私」がじゅうぶん満足できるほどには伝わってこないのかもしれない。
「無理解」や「誤解」とは、自分の側に、相手と共有したい何かがあって、その共有しているということをしっかり確認したいのに、相手の協力を得ることができない状態のことである。
自分の思ったとおりにならない、という事態を「理解」で解決できると信じたがる弱さと、希望的観測のなせる業である。
私はあなたが好き。
だから、あなたも私を好きでいてほしい。
でもそうなっていない。
おかしい。
これは「私があなたを好きだ」ということを、相手が理解していないためだ。
ちゃんと理解すれば、あなたは私を好きになる。
ぜひ理解させたい。
そのためには言葉だ。
言葉を重ねれば、きっと相手は理解して、私を好きになるだろう。
あるいは、あなたは「私があなたを好きだ」と理解しているのに、そのことを私にうまく伝えられないのかもしれない。
私に、あなたのその理解を共有させてほしい。
そのためには言葉だ。
言葉を重ねれば、きっと相手の理解は、私の望む方法で伝わってきて、私を安心させてくれるだろう。
そして“千の言葉”を発することになる。
が、自分の望むような「理解」は得られない。
きっとまだ言葉が足りないんだ、と思って、言葉を拾っては投げ、拾っては投げる。
万の言葉、億の言葉を使っても、やっぱり「理解」は得られない。
ね。
後半の「あなたが一言も発せずとも、あなたを理解してくれる人がいる」の部分。
これを、言葉で「理解」を買おうとしている人に「理解」してもらうことはできるだろうか。
それを体験させてくれる素敵な誰かと、いつかどこかで出会えるといいね。
私のようなマイナス思考全開の人には、最初から最後まで「私はあなたが好き。『でも』、あなたが私を好きかどうかはわからない。」という揺るぎない不安要素がある。
そして不安を急いで解消しようとは思わない。
だから私の周りには「誤解」がたくさんある。
私はそれを全然解かないで、放置している。
しかし、世の中にはプラス思考で自信があって、不安をすぐさま解消したくて我慢できない人が結構いる。
そういう人たちと私は、非常に相性が悪い。