TED について論争が起きている。
論争の元は、12月30日にガーディアン紙に載ったこの記事。
Benjamin Bratton: We need to talk about TED (参照)
記事はトークをほぼ文字化したものだが、内容は12分弱のビデオを見るのがいちばん良い。
字幕については、現在英語字幕が承認待ちという状態なので、日本語字幕がリリースされるのにはまだしばらく時間がかかる。
こういうとき、英語がわかるとちょっと便利よね。
Bratton 氏に直接インタビューしたことがある人が、当時の彼の口調を”too oblique and heady”と表現し、今回のトークについても”paraphrase”しているのがおもしろい(参照)。
12分が惜しい人はこれを読むと、わかった気になれるよ。
このトークはTEDxという“TED風”イベントで発表された。
“風”の意味するところはこちらの説明をどうぞ(参照)。
本家TED上ではTEDメンバー内で賛否を問うディスカッションが繰り広げられた(参照)。
そしてガーディアン紙には先週、TEDのキュレーターであるChris Anderson の反論が掲載された(参照)。
以上。
リンク先を読めばわかることは解説しない。
資料を見て、読んで、できたら他の資料も集めて、それぞれTEDについてどう考えるか、自分で考えましょうね。
蛇足として私の感想。
Bratton 氏の言っていることは、わかる。
oversimplification にうんざりすること、あるある。
ガーディアン紙読者のコメントにもあったが、特に自身の専門分野のトークを聴くと、ガッカリしやすいのだ。
ナメられたような、バカにされたような気にもなるだろう。
ただ、これはAnderson 氏の反論にあるとおり、人々が知の探求を始めるきっかけとしてTEDトークを利用すれば問題はない。
問題は oversimplification に気づかず、それがすべてだと勘違いして、わかったつもりになってしまうこと。
Bratton 氏の主張は、つまり、人々のTEDに対する思い入れが強くなりすぎていること、そのことへの警告ではないかと思う。
TEDに限らず、個人でも集団でも、有名になり、規模や裾野が広がると、なにやら宗教がかった怪しいオーラを帯びてくることがある。
そこに人は何かしらの“救い”を求め始める。
TEDの熱狂的ファンの中には“信者”みたいな人も多く、TEDというイベントに関わることに酔っている人もいる。
ましてTEDに登壇するとなれば、それはある種の“布教”なので、語る側も聴く側も、夢や未来や希望や奇跡に陥りやすい。
その結果、胡散臭いトークになっちゃってるものは確かにある。
私は基本的に冷めた人間なので、そこまで入り込めない。
TEDの翻訳を続けているが、これはあくまでも教育目的のボランティア活動であって、“TED教”の普及には興味がない。
さらに私は悲観主義で現実主義で、機械モノより人間に興味があるので、Bratton 氏の言うところの “ambiguities” や”contradictions” を含んでいるトークを好む。
私には字幕翻訳のために割ける時間が限られているし、量産することが目的ではないので、トークをかなり選んでいる。
私自身が魅力を感じ、このトークを日本語で楽しむ人たちに本当に届けたいと思うものだけに字幕をつける。
なにしろ翻訳するとなれば、完了までに何度もトークを聞くことになる。
嫌いなタイプのトークや、日本へ届いても届かなくてもどっちでもいいもの、あるいはすぐに廃れてしまいそうなものに取り組もうとは思わない。
さて、件のトークは現時点ではTEDx扱いのまま、”What’s Wrong with TED Talks?”というタイトルで、英語を皮切りに字幕作業が進んでいる。
近日中に日本語の作業も始まるだろう。
はたして私はこの翻訳をしたいかな?