言葉

最近もらったうれしい言葉。
これだけでごはん3杯はいける。

You are such a warm, strong and positive person – which is why I know you ARE and WILL CONTINUE TO BE successful in all you do!

ま、褒めすぎですけどね。
見てる人は、ちゃんと見ててくれるんだなぁ。
涙が出たよ。

この言葉をくれたのは、私には雲の上の存在の人。
人生経験が豊かで、人を大事にしていて、プロ意識が高く、どこまでも謙虚で、やさしい人。
言葉以外の手段がない場所で出会った人。
美しい言葉をごく自然に遣う人。
だからこそ、この言葉は私に響いた。

私は生活の中で、言葉のことを考えて過ごす時間が一般の人よりずっと多いのだけど、言語学者のように、言葉そのもののことを考えることはほとんどしない。
というか、言葉だけを単体で扱うということができない。
Facebook やTwitter などを見る限り、世の中には“名言”の類を好む人が結構いるようだが、私はあれ、苦手。

どういう人が、どういう文脈で、なぜそれを言ったか。
私の興味はそこにある。
言葉そのものは、まぁどうでもいいとは言わないが、さほど重要ではない。
だから出所不明の言葉をコピペして、伝言ゲームの途中で生まれた聞き間違いもそのままに、ただ広めるということのおもしろさがわからない。

たとえば私が“名言集”で人気の言葉に出会ったら、まず出典を調べる。
これでその“名言”が正確な抜粋であるか否か、どんな前後関係で発せられた言葉なのか、どう解釈するのがもっとも適切かがはっきりする。

次に、発言者について調べる。
どんな時代に生き、どのような背景から、どういう考えを持っている人なのか、ざっくり掴む。
いわゆる“よみ人知らず”であっても、時代背景を知るのと知らないのとでは理解が変わる。

こうして“名言”のホントのところを知ると、“名言”の名言度に変化が起きる。
世間でチヤホヤされているものの中には、実は薄っぺらで呆れてしまうようなものもある。
一方で、言葉にこめられた趣や深さ、厚みを知って、改めて感動することもある。
その感動のインパクトだけが記憶に残って“名言”そのものは忘れてしまう、ということが、私にはよくある。

以前の私はもう少し言葉そのものを重く受け止めていたような気がするのだが、どうやら私の興味の中心はいつの間にか「言葉を遣う人」にすっかり移ってしまったようだ。

言葉のうしろには、必ず人がいる。
人と人との関わりがある。
言葉にできるのは、その人や関係性のほんの一部を切り取って、目に見えるようにいちおう体裁を整えるということだけ。
私の言葉への興味は、言葉を遣う人についての興味のおこぼれ。
そんな感じかな。

言語教育に携わる人は、自身が言語に長けていて、言語が好きということが多い。
が、私は日本語も英語もたいしてうまくないし、言語好きでもない。
ただ、たとえば日本人英語学習者なら、彼らの本来持っている良いところが、英語のせいで割引されたり、英語が原因で不当な扱いや誤解を生むことは減らしたいので、おせっかいを焼いているのだ。
下手な英語を無理に遣うなら、通訳を雇った方がいいし、勉強するならちゃんとやった方がいい。
中途半端に遣うなんて恐ろしいことはやめた方がいい。

言葉そのものが持つ情報量なんて、たかが知れている。
言葉だけで伝えるのが難しいのはそのためだ。
でも、言葉はそれを遣う人について、多くのヒントをくれる。
言葉は誰かに届くとき、それを発した人の情報をたくさん乗っけてくる。
もちろん、発信者本人の望みとは無関係、無許可でね。
そして言葉を受け取る側は、言葉そのものよりも、言葉に乗っかってきた情報の方を主にキャッチするのだと思う。
少なくとも私のところへ届く言葉は、それを遣った人についてのさまざまな情報をたっぷり含んでいる。
時には微笑ましく、時にはゾッとするほど、時には恥ずかしくなるほど、明け透けに「その人」を運んでくる。

言葉を遣うということは、自分を曝すということ。
自分の知らない部分も、自分では隠しているつもりの部分も、すべて、まるごと露呈するということ。
そのくせ、肝心の伝えたいことはちっとも伝わらない。
だからといってボイコットして、言葉を遣わないってわけにもいかない。
難儀なやっちゃで。

私を運ぶ、私の言葉。
心して遣わなくちゃね。
見てる人は、ちゃんと見てるから。

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