疑問を疑問のまま放置しておく、という不思議な文化について。
たとえばある集団に入るとする。
その集団は私が加入するずっと前からあって、それなりにルールや習慣、マニュアルができている。
発足当初を知るヌシからつい最近入った人まで、経験の長さに違いはあるが、みんな先輩。
入ったばかりの頃は右も左もわからないので、まずは先輩に基本的なことを教わり、教わったとおりやってみる。
一通りできるようになり、だんだん慣れて、やがて自分なりの工夫もできるようになる。
すると新たな疑問が湧く。
で、先輩を捕まえて、聞いてみる。
疑問にはいくつかのタイプがあって、「マニュアルのここに書いてあるよ」のようにあっさり完結する案件もあるが、本質的な、“そもそも”に関わるような質問をするとおかしなことが起きる。
たとえば、「これ、ずっとこうなってますけど、何故なんでしょう」と成り立ちや根拠を尋ねたり、「このようにするつもりですが、その方向で合ってますか」と考え方や理解の仕方を確認したりすると、「そうなんだよねぇ、私もずっと疑問だったんだよ」なんて、疑問に同調されてしまうのだ。
なんなら「やっぱりそう思う?」的な、ちょっとうれしそうな反応だったりもする。
で、はっきりした答えは得られない。
もし新参者の私がどうしても疑問を解消しようとすると、先輩がたは「やめときな(or やめてくれ)」と秩序を保とうとする派と、「ぜひよろしく。わかったら教えて」と全面的に頼ってくる派とに分かれる。
いずれにしても、これを機に自ら回答を探そうとか、基準を作成しようという動きは見られない。
多くの場合、疑問は引き続き疑問として残るようになっている。
民族的な風習とか宗教とか、伝統的なこととか、スケールが壮大で、説明のしようがないものの話じゃないんだよ。
「それはそういうものなんです。理由はありません」と独裁的に押し付けられるならまだマシだよ。
今日まで誰も疑問に思わなかったなら、わかるよ。
業務上のシステムとして利用しているものや、運営上必要で行っているはずの手続きなのに、そして、そこに日々自分が関わっているというのに、「さぁ、なんでだろうねぇ」で、よくそのままにしておけるなぁ。
気持ち悪くないんだろうか。
「疑問に思うのは私だけじゃない」ということに満足して、うっかり疑問を解消することを忘れちゃうんだろうか。
“みんな”の力はすごいね。
いちおう言っておくと、私がこうした経験をするのは日本人ばかりで構成されている集団に入ったとき。
これまで、いろんな集団でいろんな経験をしたが、日本以外の人たちとの関わりでこれを経験した記憶はない。
まぁ私の経験はアメリカに偏ってるし、アメリカ流がいいとも思ってないけどさ。
少なくとも今のところは、「疑問だという認識はあるけど、そのまま」で平気なのは、日本人だけかなと思っている。