若い私

若い頃の私が今の私に会ったら、「見損ないました」と言うだろうなぁ。

若い頃の私は、もっと…、うーんと、なんていうのが適当かな。
自己主張が強かった?(今も強いし)
言いたいことを言っていた?(今も言ってるし)
とんがってた?(ちょっと違う)

自分が納得したことはとことんやる。
疑問に思ったことは徹底的に問う。
納得できないことは絶対にやらない。
そういう感じだったんだよね。

子どもの頃から常に持論というものがあり、「みんながやるから」では納得できない性質だった。
なぜやるのか、やるとどうなるのかがわからないときは、先生や上司に説明を求め、わかってから、やるかやらないかを決めていた。
わからない場合はわかるまで聞き、説明に満足できないときは「それでは従えません」と却下した。
やると決めたら最後までやるし、やらないと決めたら断固としてやらない。
長いものには巻かれない。
やらないと言っているのに、お金や権力でどうにかしようとする人からはすぐ離れた。

基本的なところは今も変わらない。
人は変わらないからね。
ただ、今の私は納得できないことをちょっとだけやってみる。
すぐに却下しないで、保留にする。

ここで若い頃の私は「がっかりですよ!」といきりたつ。
まぁまぁ。
がっかりするのはわかるし、それは申し訳ないが、聞いとくれ。
ただ単に長いものに巻かれるようになったわけじゃない。
こういうプロセスがあるんだよ。

やる/やらないを決めるにあたり、説明を求める。
説明が十分で納得できた場合は問題なし。
説明が不十分で、追加で尋ねても埒が開かない場合、あるいはどうにも納得できない場合、若い頃の私なら即座に「ではサヨウナラ」だった。
が、最近の私は少しだけ決断を先送りするようになった。

説明が不十分な場面では、説明となる事柄が不在の場合と、説明となる事柄はあるのに、それを説明する力のない人がたまたま説明担当者に当たっている場合とがある。
説明が不十分だと感じたら、まずは説明そのものがあるかないか、周辺情報から判断する。
説明があるのにできていないのであれば、説明できる人に出てきてもらうか、こちらから説明に近づいて誘導するようなかたちで説明を引き出す。
乏しい情報からこちらで説明を組み立てて、「こういうことですか」とプレゼンして「そうそう」となって、ようやく説明らしきものが生まれる場合もある。

納得できない場面では、とりあえず我慢する。
「納得できない」が「納得できる」に180度転換することはほぼありえないが、それでもどこかに食い違いはないか、譲歩の余地はないか、判断する時間を設ける。
直接的には納得できなくても、角度を変えて納得できる部分が見つかれば、そこで妥協できるかもしれない。
究極的には「これも修行だ」と思えば、多くのことを受け入れられる。

そうして、説明不十分や納得のいかないことを、少しでも納得のいくかたちに変えると、できる可能性のあることが増える。
若い私は「そんなもの要りません」と言うだろうし、キミはそれでいいんだけど、それでは通用しない場面も出てくるし、いつまでも同じやり方ではまずいということもあるのだよ。

言ってみれば、試しに巻かれてみるのだ。
若い私よ、キミは「巻かれたら終わり」と思ってるでしょ?
今の私は、ある程度巻かれた後でも、いざとなったらその長いものをハサミでちょん切って脱出することができるのだよ。
ふっふっふ。

若い私は「そんなの信じられない」と言うだろう。
「いざっていつですか」と苛立つだろう。
「切るのが怖くなって、結局巻かれっぱなしになるんじゃないか」と不安になるだろう。

そんなことはない。
切るときは切りますよ。
魂を売ってまで、持論を捨ててまで、盲目的に従うなんて卑屈なまねはしない。
それは若い私と同じく、今の私もあいかわらず軽蔑することだから。
そこまで落ちぶれちゃいないのよ。
はっはっは。

試しに巻かれてみたために、思いがけず良いことがあったり、そのことが、次の新しい何かにつながっていくこともある。
巻かれてみないと見えない景色もある。
見てる人はちゃんと見てる。
そういう人と目配せして、会話できるようになる。
「ではサヨウナラ」とやっているうちは、そういう出会いはない。

若い私はぶーたれて帰っていくだろうなぁ。
丸め込まれたみたいで、不満だろう。
でも、それでいいんだよ。
キミがあちこちにぶつかりながらも、まっすぐ進んでくれたおかげで、今の私があるんだから。
感謝してるよ。

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