手厳しい目に遭いやすい人と、“努力賞”のこと。
手厳しい【て-きびし・い】
遠慮や容赦がなく、きわめてきびしい。
(広辞苑 第5版)
「手厳しい」は主観的なものなので、たとえば同じ批評を受けても、「手厳しい」と感じる人とそうでない人がいる。
「繊細vs.図太い」「敏感vs.鈍感」といえばわかりやすいだろうか。
手厳しく感じる範囲が広い人は、当然、手厳しい目に遭う機会が多い。
研究の世界には手厳しい人ばかりが集まっていて、手厳しいことをズバズバ言い合う。
でも、それらをいちいち手厳しく感じていては前に進めない。
批評には毅然とした態度で対応し、納得できる指摘には感謝をし、改めるべきところは改め、守るべきところは守る。
それだけのこと。
研究というものに関わる以上、メンタルを強化し続け、健康な状態に保つのは、半ば義務のようなものだと思う。
仕事は、人によって職場によって、業種によって、いろいろなタイプが混在している。
「手厳しい」を期待や課題の表れとしてありがたく受け取るタイプもあれば、攻撃ととらえて反撃したくなるタイプもあるし、致命傷となって立ち上がれなくなるタイプもある。
手厳しい目に遭いやすい人を見ていると、“努力賞”に価値を求めている場合が多い。
がんばったアピールで、情に訴える。
そういうやり方で容赦してもらえる環境にいるのだろう。
だから、たまに外へ出て、「そうは行かないよ」と言われると、「手厳しい」と感じてしまうのだ。
また、時間に余裕のある人が多い。
本題になかなか入らず、外堀をなでるようにして、ミクロレベルの進捗を大事に大事に育てている。
日頃はそれを温かく見守り、待ってくれる人たちに囲まれて、穏やかに暮らしているのだろうが、それが許されない状況もあり、つきあっていられない場面もあり、気長な人の堪忍袋の緒がとうとう切れる場合もある。
これらの条件が運悪く揃うと、いきなり手厳しい目に遭う。
ちょっと違うけど、近いところで「未必の迷惑文」(参照)という表現を見つけた。
うん、こういう人、いるいる。
自分のがんばりを認めさせたいという欲求のために、相手の時間を尊重することまで気が回らない。
それでも多くの場合、手厳しい目には遭わない。
「世の中は優しい人で成り立っているから」。
でも、いつ手厳しい目に遭ってもおかしくない、予備軍ではあるよね。
私は手厳しい人になりやすい。
最近はそうならないように意識して、自分の言動をコントロールする場面が増えたが、それは見せかけだけの話で、基本、手厳しいのには変わりがない。
骨のある相手との丁々発止は楽しいし、言いたいことを呑みこむのは苦しい。
でも、相手を見て、ソフトにしないと伝わらない、つまり、ソフトにしてでも伝える必要性がある場合には、言葉を選ぶより他にない。
ただ、その手間をかける余裕がないときもあるし、教育的指導を発動させたくなるときもあるので、そういう場合は、勝手ながら手厳しいまま提供する。
その結果、相手は憤慨したり萎縮したり、攻撃的になることもあるが、それはしょうがない。
アメリカナイズと言われても、それもしょうがない。
“努力賞”は日本の文化。
教育において、結果よりプロセスを評価するということには意味があると思う。
が、“努力賞”が台頭しすぎて、「結果が出ていない」という事実を帳消しにするほどになってくると、これは問題だろうと思う。
最近話題になっている「残業の考え方」「効率」「生産性」などの日本人の働き方についての議論にも、この“努力賞”が一枚噛んでいるような気がする。
沈みゆくニッポン。
そろそろ“努力賞”にネガティブな意味を与えて、不名誉なものに変えてしまってもいい頃かも。
がんばったんだね、それは偉かった。
自分では満足しているんだね、それはよかった。
でも、できてなければダメだよね。
「できるようにがんばろう」と思ってやっていたかな?
どこかに「できなくてもいいや」という気持ちはなかったかな?
今回は残念だけど“努力賞”とさせてもらうよ。
次回はこれを返上できるように、がんばろうね。
「言い訳はいいから結果を出せ」なんて言うと、「手厳しい」と思われちゃうからね。
手間ひまかけて、ソフトに、ソフトに。