寂しがりや

寂しがりやさんの不可解なメンタリティについて。

私は寂しい思いをしたことがあんまりないので、寂しがりやさんの気持ちがよくわからない。
そういう部外者的目線で、不思議だなぁと思うこと。

悲しみや喜びなどの感情は、経験が物を言うという場面につながりやすい。
同時に経験した者どうしが気持ちを分かち合うこともあるし、先に経験した者が後から経験する者に寄り添い、悲しみを慰め、喜びを膨らませる助けをすることもある。
悲しみや喜びを経験することで、強さや優しさが育まれる。

ところが、寂しさというものはそうはいかない。
寂しさの経験は、寂しさを増幅させることはあっても、他のものに形を変えたりしない。
また、寂しい状態に慣れて紛らわすことはあっても、経験を重ねて寂しさにうまく対応できるようになったり、耐性ができるわけじゃなさそう。
ずっと寂しいまま。
経験者が集まって、お互いの寂しさを語り合っても、各々の寂しさはほとんど変化しない。
寂しさは、他の感情とは違う性質を持っているのだろう。

寂しさは、分かち合うものではなく、競い合うものなのかもしれないと思う。
寂しがりやさんを見ていると、他人の寂しさにまるで無頓着なことに驚かされる。
「私の寂しさに比べれば、他の人の寂しさなんて」とばかりに、他人の寂しさにはお構いなし、自分の寂しさの重大性を猛アピールする人もいる。

他人の寂しさに無頓着なので、人に寂しい思いをさせても平気でいることが多い。
しかも自らの経験から、寂しがりやのツボを心得ていて、いちばん寂しい方法で、他の人を寂しがらせる。
せっかくツボを知ってんなら、触らないであげたらいいのに。
同業者に厳しい、みたいなことなのかな。

だから、寂しがりやが集まっても、寂しさは減らない。
自分が他人の寂しさを理解できないように、他人も自分の寂しさを理解してくれないと思っているからね。
寂しいツボを刺激しあい、寂しい自慢をして、「結局いちばん寂しいのは自分」とそれぞれに確認する。
寂しがりやの母親は、子どもを寂しくさせる傾向があり、寂しさの世代連鎖をもたらすのではないかと思う。

そもそも、寂しがりやは寂しさを解消しようなんて思ってないのかもしれない。
寂しい自分が好きなのかもしれない。
誰かに何とかしてもらいたいと言いつつ、寂しさがなくなってしまうなんて考えたら、寂しくて耐えられないのかもしれない。

さっぱりわからん。

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