伝える

「伝える」ということに関して、私はきっと不真面目なんだと思う。

私は「伝える」ということにほとんど力を入れていない。
放棄していると言ってもいいかもね。

Understanding, Non-understanding, Misunderstanding(理解、無理解、誤解)は私の主要な研究テーマなので、日々そこらへんのことを考えている。
コーチングを受ける方たちの多くが「誤解される」ことに悩み、それを解消することを学習動機に挙げるから、多くの人が自分のことを正しく理解してもらいたいと思っているのも、そのためにさまざまな努力や工夫をしていることも知っている。
誤解を正すのも、無理解にわかりやすい解説を施すのも、相手の理解を得ようとすればこそ。

より確実に理解を得るための手段として、言語やコミュニケーションの質的向上は役に立つ。
言語的なことなら、文法を知ること、語彙や表現を増やすこと。
コミュニケーションなら、適切な間をとること、よく聞くこと、うまく聞き返すこと、などなどなど。
そこらへんのスキルを上げたい人がたくさんいて、私はそのお手伝いをしたいから、研究や仕事を行っている。

…ではあるのだけど。
自分のことにはまるで無頓着なのだよなぁ。

自分のこと全般、言動、見た目、その他諸々。
ま、たとえば発言を例にしても、それらが他の人にどう伝わろうと、それは not my business.
知ったこっちゃないのだよ。

ここでいう「不真面目」というのは、「繊細」と「ガサツ」、「几帳面」と「大雑把」など、「きっちりしてる」に対する「そうでない」タイプのこと。
たとえば…うーん、たとえるのも難しいのだが、たとえば贈り物を渡した相手に、リボンも包装紙も大切に扱ってほしい人と、ビリビリに破かれてもどうとも思わない人、みたいな。
あるいは贈り物の中身について、取扱説明書を添えたり、細かく丁寧に解説したりして、自分の思ういちばん良い使い方をしてほしい人と、「お好きにどうぞ」と全面的に相手に任せる人、みたいな。

自分が発信した言葉に対して、愛着がまったくないわけじゃないけど、いったん外へ出た言葉を追いかけて、相手の理解を確認するようなことを、私はあんまりしない。
なんらかのフィードバックによってうっかり確認できたときは、それが理解だろうと無理解だろうと誤解だろうと、「ほー」と思うぐらいかしら。
「どう伝わるか」には興味があるからね。

そもそも私は言葉の伝達力を信用していないのかしら。
うーん、違うかなぁ。

そうそう、「理解させる」ことには消極的だけど、「理解する」ことには積極的だよな。
時にはしつこいぐらい、わかりたがる。

下にまとめた過去の記事を読み返してみても、やはり私はこのあたりのことを、折に触れ、“真面目に”考えてはいるようなのだが、結局よくわかっていないのだと思う。

そういう状況でなんとなく言えるのは、私は「伝わらない」を前提としているということだろうか。
どうせ私の発信することなんて、「伝えたい」と大声で言うほどのもんでもないし、私には伝える力も足りないのだから、伝わらなくて当たり前。
だからこそ少しでも伝わる可能性の高い方法を選択するのだが、どんなに慎重に選んでも、まぁ伝わらないことのほうが多いと最初からあきらめている。
発信して、どう伝わるか観察して、それを踏まえて、よりよい伝え方を考えるぐらいのことはするけど、それ以上のことは、たぶんしないんだと思う。
いいかげんだね。

「伝わらなくて当たり前」の悲観主義で、「どう伝わろうと構わない」の放任主義で、「どう伝わるかを楽しみに待っている」の出たとこ勝負主義。
まとめるなら、そんな感じかしら。

この不確かな感じのままやっていける図々しさは、教育のうち、「育てる」人としては使い道があるのだが、「教える」人としては微妙。
研究者としてはダメダメだろうと思う。

で、伝わる可能性を高める活動に従事せざるを得ず、自分の言語能力はブログや翻訳や論文の執筆を通じて鍛え、他の学習者の言語能力を伸ばす方法を探し続けている
…と、そういうことかなぁ。

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