“みんな”が「普通こうだろう」と思うことって、どこに基準があるんだろう。
留学初期(2006年)に書いたものを読み返していて、そういえばその頃は「来たばっかりに見えない」と言われていたことを思い出した(参照)。
で、最近は、「そんなに長くいるようには見えない」と言われる。
なんのこっちゃ。
“みんな”の中に、「日本からアメリカへ来て日が浅い人」、および「日本からアメリカへ来てずいぶん経つ人」というのは「だいたいこんな感じ」というイメージの枠があって、どっちにしても私は当てはまらないのだろう。
これは在米歴だけではない。
年齢にしろ経歴にしろ、その他諸々の私に関する本当のことを聞いて、「そうは見えない」と言われることがしょっちゅうある。
知らんがな。
私以外の人にとって意外だとしても、私には意外でもなんでもない。
見えようと見えまいと、本当なんだからしょうがない。
そちらの言う「普通はこう」はどこから来たの?
その“基準”が疑わしいんじゃないの?
おもしろいのは「見えなーい」と言う人たちは、その“例外”に出会ったという事実を情報として蓄積しないことだ。
その場では「こんなパターンもあるんだぁ」とか何とか、それなりに反応のようなものを示すのだが、自らがもともと持っている「普通はこう」という“基準”が揺らぐことはない。
もし将来どこかでまた別の“例外”に出会ったら、そのときはまた同じように「えー、見えなーい」と言うのだろう。
しかし、“例外”は常に“例外”でしかなく、すぐに忘れ去られ、“基準”は脅かされることなく、いつまでも安泰なのだ。
そうすることで「私の考えは普通」と安心していたいのだろう。
ステレオタイプ、先入観、思い込み、神話。
やつらは手強い。
本当に手強い。