ネイティブ

言語教育におけるネイティブについて、私の考え。

ネイティブ/非ネイティブという二極分化がある。
言語教育において、ある目標言語を話すすべての人間は、その目標言語が母語であるか、そうでないかによって分けられる。
社会や家庭の事情により複数言語を母語に持つ場合や、第二言語の学習開始年齢などさまざまな要因により、ネイティブ/非ネイティブの区分にはグレーゾーンが多く、学者によって見解が分かれる。
ここでは日本人英語学習者などが一般的に考える定義にそって、「ネイティブ=目標言語を母語、第一言語として話す人。非ネイティブ=母語が確立した後で、主に教育機関での意識的な学習により、目標言語を習得し、第二言語(含・外国語)として話す人」としておく。

このブログでもたびたび書いているし、日常的にも表明しているが、私は言語教育におけるネイティブ信仰には反対。
特にネイティブ信仰している人を非難するつもりもないが、あまりにも「ネイティブ様のおっしゃるとおり」が浸透しているので、それではちょっと危ないよ、ぐらいのことは言いたくなる。

私がやっている英語・英会話コーチングの内容を説明すると、「この方法で日本語も教えたらどうですか」と言われることがよくある。
「いえいえ、私の日本語は教えられるほどではありません」「日本語教育には挫折したんです」と答えるのだが、冗談にしかとってもらえない。
このやりとりも、世に蔓延するネイティブ信仰の表れだと思う。

私は日本語を母語に持つ家族のもとに生まれ、日本語だけで生活できる日本という国で、幼稚園から大学までの教育を日本語で受けた、日本語ネイティブ。
そして日本語を教えるために専門的な勉強をし、日本語教育能力検定に合格し、資格を得て、アメリカの大学で1年間、日本語教育に携わった経験もある。

そのうえで、私には母語を教える能力はないと判断した。
ネイティブ教師になるということは、自分の母語を絶えず観察、分析する言語へのこだわりを持ち、自分の思考の根幹となる言語を客観的に研究し、さらに教室においては唯一のお手本を演じなければならない。
私にはそんな覚悟も度胸もない。
日本語に関して、私はただの母語話者でしかないのだ。
私の日本語を証拠として「日本語はこうである」なんて言うのは恐ろしいし、私の日本語を真似た人がケガをしても、私には何の責任も取れない。

子どものときからしゃべっているというだけで、学習者のお手本になれるほど言語の世界は甘くない。
これが私がネイティブ信仰に反対する理由である。

アメリカに住み、教育機関に所属しているせいもあって、私の周りには英語ネイティブがたくさんいるが、彼らのほとんどは、ただの母語話者である。
素人なので、たとえば英語のことを聞かれたとき、「何故かは知らないけどこう言う」とか、「間違ってるのはわかってるけど言っちゃう」とか答えても許される。
まして、母語以外の言語を学習したことがなければ、日本人にとっての英語がどういうものか知る由もなく、言語学習がどんなもので、何が大変で、どうして難しいか、どうやったらできるようになるのか、わかるわけがない。

英語について質問があるとき、私が相談相手に選ぶのは、ネイティブ/非ネイティブに関わらず、ESL教師、文学研究者、言語学研究者、ライター、編集者、翻訳者など、英語の文法や表現について専門知識を持ち、言語に対する意識の高い言葉のプロたち。
英語学習者として私がお手本にするのも彼ら。
素人の真似をしようとは思わない。
私がケガしたって責任とってくれないんだから。

私の日本語や、それについての知識や経験はいいかげんなものである。
しかし私は英語教育のプロなので、英語についての発言には責任が生じる。
質問に対し、個人的な経験や感覚だけで答えることは控え、文法的に正しいとされていることや、汎用的な用例を紹介する。
それでも「非ネイティブだから」といって信用しない人はいるだろうが、それは個人の自由なので関与しない。

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