「うらやましい」という趣味について。
「うらやましい」を感情と考える人が多いのかもしれないけど、私は行動と考え、頻繁に行う人がいれば、それはその人の趣味なのだと思う。
財産や地位や名誉や、美貌や才能や、運の良さ、学歴や職歴、住むところから家族構成、持ち物の一つひとつに至るまで、自分に関わるありとあらゆるモノやコトについて、他人に「うらやましい」と思われたい人がいる。
「どうだ、すごいだろ」「いいでしょ」などという思いを前面に打ち出しつつ、口にはしないで目で訴えかけて、「すごいね」「いいね」を催促する。
得られた「すごいね」「いいね」は「うらやましい」と翻訳され、「うらやましい」と思われたい人の心を満たす。
「うらやましい」と思った人もまた、どこかで「うらやましい」を取り返そうとする。
自分が「うらやましい」と思ったのに近いモノやコト、まったく同じモノやコト、あるいはそれを上回るモノやコトを持ったりやったりして、それを持たざる者に見せ、「すごいね」「いいね」を催促する。
そういうことを好む人たちは、延々とその「うらやましい」のやり取りをやっている。
好きでやってんだろうから、趣味だと思う。
ま、本人たちにとっては一種の戦いであり、抜けたくても抜けられない面もあるようなので、趣味というより依存症の域のものかもしれない。
「うらやましい」を奪い合い、あるだけかき集めてもなお、足りなくて不安になったりしているからね。
もちろん、「うらやましい」を勝ち取るのも簡単ではないので、趣味といっても誰にでもできるものではない。
知り合いが多く、“誰にでも好かれる”タイプだと、比較的効率よく「うらやましい」が集められる。
また、「うらやましい」サークルに所属する人は努力家の頑張り屋さんで、それなりの結果を出している場合が多い。
頑張っている人というのは、頑張っているだけに咎められにくいが、頑張ってりゃ何をしてもいいってもんじゃない。
もし依存症の類なら、放っておいちゃダメだよね。
私にはその趣味がないので、「うらやましい」の応酬に出くわすと、ただうんざりする。
アピールされている“実績”の価値よりも、その行為によって露になる、寂しがりやの、愛されることへの強すぎる要求に、気が滅入る。
私の手には負えないので、一刻も早く切り上げるために、薄っぺらで中身のない「うらやましい」をとりあえず渡して、その場をしのぐ自分が嫌になる。
劣等感、優越感、自慢、自己顕示欲、承認欲、虚栄心、誇大…。
満たされない心を何とかしたいなら、「うらやましい」をやめればいいのに。
それを続ける限り、終わらないのに。
大勢じゃなく、たった一人でも、しっかり包んでくれる誰かを探したらいいのに。
そしたら見せびらかさなくても大丈夫になるのに。
「寂しいよぉぉ」と泣き叫ぶことができたら楽になるのに。
できないんだろうね。
かなしくなる。
私のセンサーの感度が高すぎるのかもしれない。
これを手動でオフにする方法はないのかな。
私はその手の人のことを、「一人でメシの食えん人」 と言いならわしています。
そして、「一人でメシの食えん人に付き合わされるのは、かなわん」 と思っています。
なるほど。
きっとそこでの「うらやましい」ポイントは「一人じゃないこと」なんでしょうね。
一人でメシを食うこと、あるいはその姿を目撃されることを回避すべく、“努力”するわけです。