「最終段階に来て、やる気ゼロになってたなぁ」という記録のために。
ABD (All But Dissertation) という言葉がある。
博士課程の最後の最後、あと論文を出しさえすれば修了、というところまでたどりついた状態およびその人のこと。
PhD Candidate という呼び名は公式だけど無味乾燥。
ABD はもっと人情味があって、いろいろ乗り越えた人への「よくぞここまで!」「あとちょっと!」という賞賛であるとともに、「ここで挫折するなよ!」という警告でもあると思う。
博士課程に入ってまもなくの頃、ABDまで行って論文が書けず中退する人が多いことを知った。
「そうなっちゃダメだよ」と言われた。
「あと一歩まで行って辞めるのは、もったいないしね」。
そのときは「私はABDにさえたどりつけないから関係ない」と思っていた。
が、あれよあれよという間にABDになって、すでに1年半。
ABDまで来て辞める人の気持ちがものすごくよくわかる。
辞めたくなる理由はだいたいこの3つぐらいじゃないかな。
1. 燃え尽きる
コースワークの激流、認定試験の苛酷さ、プロポーザル執筆の煩雑さ、ディフェンスの緊張など、数年に渡る厳しい戦いを勝ち抜き、見事ABDになると、博士課程に入って以来、初めてホッと一息つくことになる。
そこまでにやってきたことを振り返り、達成感を得る。
で、満足しちゃう。
「ここまで必死に頑張ったし、もういっかー」となる。
2. 飽きる
予備実験、プロポーザルの執筆、修正、その過程での論文発表などを通じて、自分の研究を語る。
何回も何回も、同じことを書き、話す。
もちろんそうすることで内容はより洗練され、自分の理解は深まり、研究について新たな発見をするので、厳密には“同じ”ではないのだけど、まぁ同じことの繰り返しなので、興味が薄れてくる。
自分の博士論文を頭に浮かべたとき、どう展開してどういう結論になるか、構成できた時点で書くことに対して意欲が萎える。
「だいたいわかっちゃったし、もういっかー」となる。
3. 必要なくなる
博士号という看板がなければ成しえないことがある人は、ただひたすらそれを獲得するために邁進できるかもしれないが、そうでない人は辛い。
ABDまで到達している人は、知識も経験もそこそこ以上持っているし、すでに職についていることも多い。
「なくてもやっていけるし、もういっかー」となる。
何を隠そう、私はこの3つすべてを抱えている。
満足して、意欲をなくし、仕事をしている。
もっと言えば「論文書かなきゃ」という焦りは仕事の邪魔になるし、執筆に費やす膨大な時間が惜しいとも考えている。
でも今日現在、とりあえずドロップアウトせずに留まっているのは、「修了できるものなら、しといた方が良いかも」という予感が、かろうじて、なんとなくあるから。
その予感を支えるのは、諸先輩方の声。
ABDになって研究への興味が薄れることも、ただ終わりたいと願う研究者としては不謹慎な気持ちも、上記3つの泣き言も言い訳も、全部わかった上で、「それでもとにかくやっときな」と言う。
「博論を書き終わる頃には、興味もまた沸いてくるから」とも言う。
博士号という無用の看板についても、「いいからもらっときな」と言う。
今の私には想像もできない、修了後の世界というものがどうやらあるらしく、そしてそこは悪い場所ではないらしく、「つべこべ言わずに、こっちへ来い」と言う。
仮に私を騙しても、何の得もなさそうな人たちだ。
もちろん諸先輩方以外にも、私を応援してくれ、修了を心待ちにしてくれている人たちもいる。
師匠にも喜んでもらいたい。
発狂しそうなほど手間をかけて採ったデータはかなりおもしろいものになっている。
「やろうと思ったんですけど…」とか、「いいところまで行ったんですけど、いろいろあって…」とかより、「遂げずばやまじ」(参照)の方が私の好みだということもわかっている。
書き終われば、みんながハッピーになる。
いつか「やっといてよかった」と言う日が来そうな予感もある。
そもそもここまで来て、投げ出すなんて許されないよ?
甘えてんじゃないよ。
やるしかないんだよ。
はい。
ぐうの音も出ない。
わかっちゃいるんだけどねぇ。