運命

ウンメイを感じやすい人のこと。

ひとつの言葉が人によって違うように解釈され、違うように使われるということはよくある。
たとえば、やけにウンメイを感じやすい人たちの言う『ウンメイ』というものは、どうやら私の考える『運命』と、別のものらしい。
ここでは身びいき全開で、自分の考える方を漢字で、そうでない方をカタカナで表記して区別する。

きっと別のものなんだろうなぁと思う根拠をざっくり並べると以下の3点。

1. 頻度
ウンメイを感じやすい人は日常生活の中で、ものすごく頻繁にウンメイに出くわす。
見たもの聞いたもの、行く場所、会う人など、年がら年中、それはもうありとあらゆるものにウンメイを感じている。

私にとって「運命を感じる」というのはもっと大ごとなので、運命の出会いなんて、たぶん一生に数回しかないと思う。
そうめったにあるもんじゃないし、そんなに頻繁にあったら身が持たない。

2. 継続性
ウンメイは寿命が短い。
「あ、これウンメイだ」とカートにポイポイ入れて、レジに着くころには「あ、違ったかも」ってなもんだ。
で、要らなくなったウンメイは捨てられる。

私は運命というものは長い期間にわたって、何度も何度も「それが運命であること」を確認させられるものだと思っている。
繰り返し「やっぱり運命だったんだなぁ」と深く納得し、離れようがないのが運命だろう。

3. イメージ
ウンメイは楽しくうれしく明るく美しい。
ウンメイを感じやすい人は常にウンメイを追い求めている。
ウンメイが舞い込むことで自分の人生はバラ色に開け、これまでのことは自動的にリセットされ、自分は周囲をアッと驚かせるほどの華麗な変身を遂げ、多くの人に愛されるようになる。
ウンメイとは、いわば万能のパワーであり、幸運をもたらす塊のようなものらしい。

私は運命というものを待ったことも求めたこともない。
運命によって与えられることはたいてい苦難や苦悩、苦労を伴い、少なくとも出会い頭では「困ったなぁ」と思うものだ。
しかし運命である以上、否応なしに来るもので、しぶしぶ受け入れ、それに従って我慢していると、そのうち徐々に意味がわかってきて、「しんどいけど、そういうことならしゃーない」と諦めがつく。
私にとっての運命とは、修行と同意語なのだと思う。

第二言語に手を広げるまでもなく、お互いの母国語である日本語の範囲内でも、このように、意味の擦りあわせがほぼ不可能な、絶望的なギャップがある。

「言葉って難しい」。
思考停止のキーワードでお茶を濁しておこう。

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