「心を鬼にする」について。
まずは辞書を引いてみる。
【心を鬼にする】
相手に同情しがちな気持を抑えて厳然たる態度で接する。
(広辞苑)
続いてネット検索してみる。
かわいそうだと思いながら、厳しい態度をとる。
「子供の将来のために―してしかる」
(デジタル大辞泉)
気の毒に思いながら,その人のためを思ってやむなく厳しくする。
「 - ・して破門する」
(大辞林 第三版)
相手のことを考えて、かわいそうだという気持ちを、 おさえ、わざと、きびしく、ふるまうこと。
(ことわざ学習室)
その人のことを考え、わざと厳しい対応をすること。
本人の将来を考え、冷たい態度をとることを指す。
(ことわざ四字熟語と慣用句)
ふむ。そうだよね。
登場人物は「A. 育てる・導く人」と「B. 育つ・導かれる人」。
AはBに対して厳しい対応をする。
その舞台裏をちょっと考えてみよう。
AはBに対し、厳しい対応、甘い対応のどちらもすることができる。
Aは、自分が厳しい対応を選択すれば、Bが凹んだり失望したり反発したりすることを知っている。
もちろんAはそれを望んでいない。
またAは、自分が甘い対応を選択すれば、Bを喜ばせたり安心させたりする可能性が高いことも知っている。
できることならAだってそちらを選びたい。
しかしAはあえて厳しい対応を選択する。
一時的な快楽はBのためにもA自身のためにもならないと考え、お互いの、より長期的な幸せや本質的な問題解決のために苦渋の選択をするのだ。
そこにはある種の賭けがある。
Bは耐えかねてAから離れていくかもしれない。
恨みを買うかもしれない。
そういうリスクがある。
しかしAはBの理解力や、AとBとの間にすでに築かれている信頼関係を踏まえ、BがAの本意を酌み、期待に応えてくれると信じて、覚悟を決めて、勝負に出る。
「心を鬼にする」にはそのくらいドラマチックで緊迫したムードが漂っている。
ところがネット上には「心を鬼にする」を、自己の抑制、管理や規律の意味で使っている例が多いようだ。
登場人物は自分ひとり。
こちらの記事(参照)は2007年に書かれたものだが、当時のGoogle検索でヒットしたという例は以下のとおり。
・心を鬼にして棚を整理
・大好きな「横濱あんぱん」に飛びつくも、心を鬼にしてバナナを選択。
・経費は自己申告ですが心を鬼にして事実に基づいて申請しています。
うそーん、と思う。
でもこのくらいのズレ方、いかにもありそうだとも思う。
惜しいというか、カッコ悪いというか、恥ずかしいというか。
試しに「心を鬼に」で検索をかけてみると、2013年の本日現在でもこのような用例はゴロゴロしている。
「厳しい世の中を生き抜くために、心を鬼にして頑張っている」とか「心を鬼にしてケータイの電源を切る」とか。
上記に引用した2007年の記事の筆者はこれらの例文について、「ややユーモラスな表現」と非常にマイルドだが、私は完全なる誤用だと言っておく。
「心を鬼にする」場面には最低2人の登場人物が必要なのだ。
その二者の関係性や、「心を鬼にする」側の強い愛情や決意、葛藤をそう簡単に無視しないでほしい。
こういう話をすると「言葉は生き物だから」とかいう思考停止のキーワードを使いたがる人がいるが、こんなに曖昧で軽薄な方向にばかり変貌していく生き物なら、お互いのために、たまには「心を鬼に」してでも、軌道修正してやる必要があると思うよ。
「ネイティブはみんなこういう使い方をしてますよ」って言えばいいんだっけ?
こちらの記事を拝見させて頂き、「心を鬼にする」の明確な定義とその言語化処理に大変感銘を受けました!
ありがとうございます。コメントいただいたおかげで私も久しぶりに読み返すことができました。