字幕翻訳

字幕翻訳をやってみた。

日本の英会話学校に通う生徒さんに“入門の動機”を尋ねると、たまに「映画を字幕なしで観られるようになりたい」という人がいる。
学校側が用意したアンケートにもその項目がある。
ま、正直な反応としては、「それ、できてもあんまり意味なくない?」か、「無茶を言うな」なんだけど、概ね黙っておく。

私は猫も杓子も外国語をやるというのには反対で、むしろプロの仕事が利用できる場面ではプロに頼るべきだと思っている。
通訳が雇えるなら雇えばいいし、訳書が手に入るならそれを読めばいいし、母語の字幕があるならそれを見ながら映像に集中したほうがいい。
あとはプロの仕事の質を上げれば済むこと。

先日TED Talksを利用した授業アイディアを記したが(参照)、TEDのビデオは教材として本当にいろんな使い方ができると思う。
ひとりでも多くの人に見てもらいたい。
が、英語ができないと見ても内容がわからない。

で、微力ながら日本語字幕翻訳のお手伝いをすることにした。

結論から言うと、とても好きな作業みたい。
言語をいじって、文字にして、映像のタイミングに合わせる、という職人的な部分はもちろんのこと、自分の言語とその周辺の能力が試され、鍛えられている感覚があって気持ちいいのだ。

トークはすでに英語字幕が用意されているので、それを日本語に訳して区切りごとに専用フォームに入力するだけ。
その場で映像に合わせて字幕のタイミングを確認できるようになっている。
すばらしく便利で楽チン。
手と足と目と耳をフル回転させて文字起こししている身からすると(参照)夢のようなシステムだ。
たとえるなら、リヤカーに重い荷物を載せて上り坂を牽引するのと、リムジンが玄関までお迎えに来るぐらいの違い。

まずは“タスク”として依頼されているリストの中から仕事を選ぶ。
仕事は①翻訳②校正③承認の3種類。
翻訳待ちのビデオを選び、ひと通り見て、作業開始。
いろんなやり方がありそうだけど、ひとまずざっくり英語字幕を訳し、映像にのっけてみて修正するのが効率的によいような気がする。
話の速度によって、文字が足りなくて間延びしてしまったり、早すぎて字幕を読むのが追いつかなかったり。
この調整は映像字幕ならではの作業でおもしろい。

話し言葉を訳すと、自分の生活習慣みたいなものが如実に表れる。
英語・日本語という言語そのものの知識などよりも、それらをどう使っているかという経験が試される。
他に適切な用語が見当たらないので、安っぽいのは承知で、“コミュニケーション装置”と呼んでおくが、言語的・非言語的な情報をインプットして、咀嚼して、アウトプットするためのブラックボックスのような装置が、頭の中で起動するのが感じられる。
日常では会話などのために、インプットとうまく組み合うようなアウトプットを作るので、インプットが凸ならアウトプットは凹なのだけど、字幕翻訳では凸のインプットに対して、形は凸のままで、色違いを作ってアウトプットしているような感覚になる。
(伝わるかなぁ?)

で、思いついたんだけど、このコミュニケーション装置を扱う能力を測ると、いわゆる“英語力”“日本語力”などといわれる表層的な能力のほかに、より繊細でDynamic(動的)な能力を観察できるかも。
名づけるなら“コミュニケーション能力”という、これまた残念極まりない用語になるんだろうけど、この能力こそが人間のコミュニケーションの肝であることは確かなので、観察には意味があると思われる。

インプットを観察すれば、聞き手として見たり聞いたりしたものをいかに丁寧に拾えるか、その精度がわかる。
言語や表情や息づかいや話す速度や抑揚などの情報を取りこぼさず、相手の発信したままに、できるだけ純度の高い状態で、インプットされた情報を装置に入れることができれば、コミュニケーションが円滑に進む可能性は高まる。

装置内での作業を観察すれば、言語運用に必要な判断基準の質がわかる。
インプットを解析し、その情報をいったんバラバラにして、期待されるアウトプットの理想形(例:凹なのか、凸の色違いなのか)に応じて、情報の重要度を決め、選別し、その判断に基づいてアウトプットを作る。
ここでの判断基準が高度に確立されていれば、処理速度が上がるので、テンポよく的確なタイミングでコミュニケーションを進めることができる。

アウトプットを観察すれば、話し手としての言語能力がわかる。
こう考えていくと、アウトプットの観察がいちばん単純で、その分、観察結果から得られる情報は非常に少ないことがわかる。
現在の英語教育ではアウトプットさえ満足に観察できていない。

この装置そのものの性能や装置を操作する能力を無視して、インプットまたはアウトプットをただ増やしさえすれば言語能力が向上する、などというのは、今更ながら短絡的で乱暴な発想だよなぁ。
これは日本だけの問題ではなく、第二言語教育全般の問題。
ところが、そんな乱暴なやり方でも一部の学習者は第二言語を習得し、成功例として“動かぬ証拠”になってしまう。
さらに、特に外国語の指導者になるような人は、そういう“特殊な”学習者である場合が多いので、自身が受けた指導法を疑いもせず踏襲する傾向がある。
というわけでなかなか改善されない。

は。
なぜこんなマニアックな話に。
「字幕翻訳をやってみたらおもしろかった」と、そういう気楽なかんじで書き始めたはずだったのに。

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