命のサイズを見積もること、について。
大学院に入ってからの4年ほど、2006年から09年ごろの間、私はとても忙しかった。
それ以前にも昼は会社員、夜は英会話講師というような、傍から見ればじゅうぶん忙しい生活をしていたこともあるし、本人もその最中にいるときは「今がいちばん忙しい」と思い込んでいたのだけど、留学が始まって「あ、本当に忙しいとはこういうことか」と、考えを改めざるを得なくなった。
そのくらい忙しかった。
寝食を忘れ、削れる時間はぜんぶ削って勉強に充てた。
助手として、講師として、仕事も必死でやった。
友達の誘いやお願いごともなるべく断らないようにした。
常に時間が足りなくて、ずっと時間に追われていた。
休むことはサボること。気を抜くと罪悪感がつきまとった。
私の人生において、あれほど忙しい時期はもう二度とない。
なぜなら私はもう「忙しい」と思うことをやめてしまったから。
2010年ごろから立場や課題の種類が変わり、それまでより余裕のある生活ができるようになったという現実的な理由もある。
世界の第一線で活躍する人たちの忙しさを目の当たりにして、「こりゃ口が裂けても忙しいなんて言えないな」と恥ずかしくなったせいもある。
とにかく、忙しさの競い合いをするのがバカらしくなった。
で、不戦敗でもなんでもいいから足を洗うことにしたのだ。
仕事があればやればいい。
行くべきところへは行けばいい。
できないことは引き受けないようにすればいい。
たまには無理もする。
でもそこにいちいち「忙しい」をはさむ必要はない。
というわけで私自身はすっかり忙しさから解放されたのだが、あいかわらず周囲には「忙しそう」だと思われている。
誤解は放置する性質なので、そのままにしてある。
人はなぜこんなに「忙しい」と思いたがるのか、自ら忙しさを呼び込みたがるのか、と考えていたら、こんな記事にぶつかった。
『現代人はなぜ忙しいのか?』。
おぉ、『おとなの小論文教室』じゃないの。
この連載、10年ぐらい前にはよく読んでいて、送った感想が何度か掲載されたこともあったのだが、そういえばここ数年は読んでいなかった。
この”Lesson”は2011年7月のもの。
以下、引用。
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「死を遠ざけたこと」、それが、現代人の忙しさの元凶だ。
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80年の命のサイズで、無自覚に、120年分のやることをしょいこんでしまったら、120-80=40年分は、「効率」をあげねば追いつかない。
結果、一生効率に支配され、はやくはやくと追い立てられ、必死になって急いでも、決して一生楽にならない。
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延命治療や、若返り手術、美容技術で、いつまでも若く・健康で・きれいに生きられるような「幻想」を肥大させてしまった。
その幻想の分だけ、命のサイズ感覚もブレ、身のたけ以上の責任・仕事・ストレスまで背負い込むというツケがきた。
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あきらめることは、自分の夢のサイズを、自分の命のサイズにピタリあわせて修正する行為だ。
残された限りある命を活かすための知恵だ。
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なるほど。
道理で私はこんなにゆるゆるとラクに生きているわけだ。
私は自分の命のサイズを小さく見積もっている。
『いのち=時間』(参照)という意味で短いものと覚悟しているし、容量や能力という意味でも、自分のキャパシティーは小さいと思う。
終わりを静かに迎える用意はいつでもあるし(参照)、「あきらめる」ことを肯定的に捉えている(参照)。
後回しや先送りを信用していない。
執着がない(参照)。
私は死を身近に感じているのだ。
理想を高く持つことや夢を追い続けることは、しばしば現代人の“あるべき姿”のように描かれている。
多種多様な物事を日替わりで次々とこなすことこそが“充実した人生”なのだと多くの人が信じている。
スケジュールを埋め、見たもの食べたものを詳細に記録していないと、生きている実感が持てないのかもしれない。
“忙しさ”を減らしたりすると、そのぶん死が近づいてくるような気がして、怖いのかもしれない。
見ないフリをしようと、直視しようと、命のサイズは変わらない。
詰め込んでも、多めに背負いこんでも、少なめに控えても、忙しくしても、しなくても、焦っても、ゆとりを持っても、何をどうしても、サイズは一向に変わらない。
それでも大きめに見積もりたい人はいるんだろうから、あとは好みの問題ですかね。
私は少なめ、小さめ、短めにしときます。