珍しくアメリカを褒めてみる。
「コンクリートのシーリングをするため、木曜は朝9時から夕方4時までガレージを使わないでください。
ご協力をお願いいたします」
というお知らせが、紙切れ一枚で、しかも前日にあった。
昨日は帰ってきたのが遅かったので路駐スペースは満車。
仕方なくガレージに入れておき、朝みんなが出勤したのを見計らって、車を移動させることにした。
朝8時半、ガレージに向かうと、とまっている車はほんの数台。
出勤していく人たちもいるし、私と同じように路上に移動させている人もいる。
こうして『お知らせ』にお願いされたとおり、ガレージは空っぽになる。
日本だったらこうはいかないと思う。
「あ、すみません、お知らせ見ませんでした」
「忘れてました」
「ちょっとぐらいいいじゃないの」
「そもそも前日にお知らせってありえない」
「家賃払ってるのはこっちだぞ」etc.etc.
いろんな言い訳やクレームで足並みを乱す人がきっと出てくる。
アメリカには逆らえないAuthorityがいる。
市民に対する警察や大統領、社員に対する社長、店子に対する大家、客などに対するサービス提供者、子に対する親、生徒に対する先生、子どもに対する大人。
有無を言わさぬ絶対的な関係があることをアメリカ人は知っている。
それが秩序を生み、公共心やマナーにつながっている。
アパートの管理人がガレージを使うなといえば、たとえ周知がイマイチでも、テナント側に言い訳は許されない。
従うのが当たり前なのだ。
そうすることで皆も自分も気持ちよく暮らせる。
ルール変更を主張できるのも、従う姿勢があるからこそ。
世界屈指の先進国らしく、日本にもルールはある。
法律もシステムもちゃんと整っている。
しかし、進化しすぎた日本人は、それらをすっかりナメている。
「ルールをきちんを守るなんてカッコ悪い」とか、「カネを払いさえすれば逆らう権利がある」とかいう勘違いが蔓延し、ルールが機能しなくなってしまった。
対策としてルールを増やしたり厳しくしたりしたところで、「ちょっとぐらいいいじゃない」という甘えはなくならない。
一方で、盲目的にルールを厳守しようとする者も現れるから、あちこちで無理や軋轢が生じる。
ルールは何のためにあるのか、という根本的な理解が得られていないのだ。
この違いはアメリカと日本の両方で暮らしている私には肌で感じられる。
自身がガイジンであるという弱者の意識を別にしても、アメリカでの私は日本での私に比べ、ルールをきっちり守る。
日本では気を抜くと「ちょっとぐらいいいじゃん」が顔を出す。
不真面目を助長するムードが日本にはある。
以前アメリカの空港で、入国管理でひっかかった日本人が、「乗り継ぎ便に間に合わない」という訴えを聞き入れてもらえず、隙を見て脱走しようとして捕まったのを見たことがある。
語学留学にでも来たような若い女性だった。
取り押さえた係員は厳しい顔つきで「ふざけるな」と怒鳴った。
彼女はようやく事態を把握したらしく、その場で泣き崩れた。
日本人は誰かに「ふざけるな」と一喝してもらう必要があるのかもしれない。
日本では「目に余る」という状態になった時、別の言い方をするとと、「打たれるほどの『出る杭』になった時に、初めて「ルール違反」と認識されるようなのです。
多くの人が同じぐらいのレベルでルールを破っているうちは、それは見過ごされるべきであるという無意識的合意があるように思えます。
ということなので、「出る杭」になってしまうと、時にはわけのわからない理由で取り締まられます。
「ルール違反かどうか」よりも「みんながしているかどうか」のほうが重要というわけですね。これも思考停止の一例でしょう。